社会・時事

アル=アクサインティファーダ – パレスチナ問題(8)

アル=アクサインティファーダ(第二次インティファーダ)

キャンプ・デービッドでの合意不成立でパレスチナが大きな失望感に包まれる中、2000年9月28日にイスラエルの右派政党リクードの党首 アリエル・シャロン は、武装した側近と共にアル=アクサ・モスクの広場に立ち入り、エルサレムがイスラエル領土であることをアピールしてパレスチナ人を挑発。

アル=アクサは東エルサレムにあるイスラム教の三大聖地の一つで、ムスリム(イスラム教徒)以外の立ち入りが禁止されている場所で、ユダヤ教徒であるシャロン党首の立ち入りはイスラム教徒を汚辱する行為だった。

アル=アクサ・モスク

パレスチナ人を始めアラブ諸国はシャロン党首の行動を激しく非難、パレスチナ地区で抗議や暴動が発生し、アル=アクサインティファーダ(第二次インティファーダ)へと発展する。
第一次インティファーダと異なり第二次インティファーダは暴力的で、暴動を起こしたのはアラブ人に対して、テルアビブでは数千人のユダヤ系イスラエル人が暴徒と化してアラブ人を襲撃。

パレスチナとイスラエルの対立が激化すると、ハマスやイスラーム聖戦のほかファタハの分派 アル・アクサ殉教者旅団、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)など PLOの加盟組織も主に民間人を標的にした自爆テロやロケット攻撃を行い、多くのイスラエル人が犠牲になった一方、イスラエルは空爆などの軍事行動を起こし、2005年の終結までにパレスチナ人 約3000人、イスラエル人 約1000人、外国人 64人が死亡する。

2001年に実行された自爆テロは主だったものでも 25件、2002年は 40件を超える自爆テロが実行され、2年間の自爆テロで 200人以上が犠牲になっている。

アル=アクサインティファーダによる武力衝突が続く中、2001年の首相選挙で首相に就任したアリエル・シャロンはアラファト大統領との会談を拒否。
多発するテロの原因がアラファト大統領にあると見做し、ヨルダン川西岸地区のラマラにあるパレスチナ自治政府を包囲、アラファト大統領は外出が禁止されて軟禁状態になる。

米国共和党の ジョージ・W・ブッシュ 大統領はシオニスト団体やユダヤ系の団体と定期的な会合を開くなどネオコン勢力(新保守主義者)との繋がりが強く、共和党の支持基盤であるキリスト教の福音派がイスラエルを支持しているため、パレスチナに対する経済援助の削減や、アラファト大統領と関係のある資金の凍結、パレスチナへの融資の制限などの経済制裁を実施する。

アラファト大統領は為すすべもなく、国際的圧力を受入れる形で 2003年4月に和平推進派の マフムード・アッバース を初代首相に任命するが、首相のポストが創設されたことで大統領の権限が分散し、アラファト大統領とアッバース首相の間で権力闘争が発生したほか、ハマスなど強硬派の反発に遭い、わずか半年でアッバース首相は辞任。
2003年10月にアラファト大統領はパレスチナ非常事態政府を発表し、側近の アハメッド・クレイ を首相に任命する。

アハメッド・クレイ(アブ・アラ)は 2006年の議会選挙まで暫定首相として パレスチナ自治政府(PA)の安全保障問題に対応。
2003年4月に公表された「平和のためのロードマップ」はイスラエルと共存する独立したパレスチナ国家の設立を求めたものだったが、イスラエルは和平計画を遵守せず、ロードマップを公表した米国もイスラエルの違反に対しては黙認する状態だったため、アハメッド・クレイ首相は「平和のためのロードマップ」に沿った和平プロセスを再開し、完全に独立したパレスチナ国家の設立を目指す。

2004年10月12日、軟禁状態が続くアラファト大統領は嘔吐や虚弱感などの体調不良を訴え、10月29日にパリ郊外のクラマールのパーシー・ミリタリー・ティーチング病院で治療を受けるが、回復せずに 2004年11月11日に死亡が発表された。
自由と独立を求めて苦闘したパレスチナのカリスマは 75歳で怒涛の生涯を終える。

アラファト大統領の死因は公表されず、毒殺を疑う妻の希望で 2012年に遺体が掘り起こされ、スイスの研究機関が所持品や組織を検査した結果、通常レベルの18倍以上の放射性物質ポロニウム210が検出され、83%の確率でアラファト大統領が毒殺された可能性があると発表したを アルジャジーラが報道
検査はフランスとロシアでも行われており、フランスの専門家は自然死である可能性が高いとして毒殺説を否定、ロシアは死因の特定はできないという見解を発表する。

フランス司法当局は殺人事件として捜査するが、2015年に証拠不十分として捜査が打ち切られ、イスラエルによるアラファト大統領の暗殺を疑うパレスチナ自治政府は国際的な犯罪捜査を要求するが実現していない。

アフマド・ヤースィーン暗殺

エジプトのイスラム主義組織「ムスリム同胞団」のガザ支部で慈善活動を行っていた アフマド・ヤースィーン は、第一次インティファーダの時にイスラム主義組織 ハマス を結成。
ヤースィーンはハマス結成後もイスラム教が定める相互扶助の精神に基づき、ムスリム同胞団で行ってきた福祉活動をガザ地区やヨルダン川西岸地区で継続し、医療サービスや子供たちに教育の場を提供しているほか、食料や衣類、家具などの物資を配布して貧困層や難民の生活を支援、イスラエルの占領や封鎖によって苦しむパレスチナ人にとって大きな助けとなっていた。

日本や欧米はハマスをテロ組織に認定しており、メディアでもハマスのテロ行為ばかりが報道されるが、ハマスの行動原理はイスラム教に基づいており、ヤースィーン自身はハマス創設前から慈善活動を行っていた。

2003年9月6日、イスラエルは自爆テロを繰り返すハマスに対して、ヤースィーンを暗殺するため F-16でガザ地区の建物をミサイルで攻撃
一命を取り留めたヤースィーンは「暗殺政策がハマスを終わらせられないことは日が経てば証明されるだろう。ハマスの指導者たちは殉教することを望んでおり、死を恐れてはいない」と語り、暗殺未遂後も身を隠そうとはせず、2004年3月22にイスラエル軍はモスクから戻る途中のヤースィーンの車両を軍用ヘリコプター AH-64 アパッチで攻撃、ヤースィーンを含めた 9人が即死し、12人が負傷した。

国連の コフィー・アナン 事務総長はヤースィーン殺害を強く非難し、国連人権委員会も殺害を非難する決議を可決したが、国連安全保障理事会に提出されたパレスチナ人の超法規的処刑と民間人に対するテロ攻撃を非難する決議草案は米国が拒否権を発動して採択に至らなかった。

米国は拒否権を発動した理由について、ヤースィーン殺害の 1週間前に発生したハマスとファタハが共同で実行したアシュドッド港の自爆テロ事件を受け、決議草案でハマスが明確に非難されていないとした。

ヤースィーンが殺害された後、ハマスの指導者になった アブド・アルアジズ・ランティシ はヤースィーンの追悼式でイスラエルへの報復を宣言するが、ランティシ自身も一ヶ月後の 4月17日にイスラエルの軍用ヘリコプターの攻撃を受けて殺害される。

イスラエルのガザ地区撤退

イスラエルのシャロン首相は自爆テロの報復としてパレスチナ地区を包囲してパレスチナ自治政府の施設や武器庫を破壊、この軍事行動によりパレスチナ地区の民間人は自宅に閉じ込められ、食料や水、医療などの基本的な生活必需品が不足する人道的な危機を引き起こす。

シャロン首相は治安維持とテロ抑制を理由に、2002年からパレスチナのヨルダン川西岸地区とイスラエルの境界に「隔離壁」の建設を開始し、パレスチナ人の生活や自由を制限。
隔離壁は国際法に反するとして、国際司法裁判所や国連総会などから批判されているが、現在もパレスチナ人の移動はイスラエルによって制限を受けている。

イスラエルのパレスチナ地区に対する軍事行動や入植地の拡大に対して国連やアラブ諸国、欧州などから非難を受ける中、シャロン首相はパレスチナ地区の占領を維持することのメリットとパレスチナ地区の価値を天秤にかけ、事前にパレスチナ自治政府(PA)との交渉なしに、2004年4月14日に米国の ジョージ・W・ブッシュ 大統領あての書簡でパレスチナ地区からの撤退計画を発表。

イスラエルはパレスチナ地区を占領地にすることでアラブ系イスラエル人が増加し、ユダヤ系イスラエル人のアイデンティティが脅かされる懸念があり、パレスチナ地区から撤退は国際社会からの孤立を回避するとともに、南アフリカのアパルトヘイトのようにアラブ系イスラエル人とユダヤ系イスラエル人の居住区分離と、占領地の維持にかかるコストを削減する狙いがあった。

2005年2月に米国とヨルダンの仲介によってエジプトのシャルム・エル・シェイクでイスラエルのシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッバース大統領の首脳会談が実現し、イスラエルはガザ地区への攻撃停止、パレスチナはハマスなどの過激派組織の暴力の停止に合意して停戦協定を締結する。

アラファト大統領の死後、パレスチナ自治政府はファタハの指導者である マフムード・アッバース が大統領に就任、2005年1月に行われた大統領選挙で再選している。

2005年8月7日に退去計画は閣議決定されると、テルアビブでは 20万人規模の反対集会が開かれ、シオニストらが撤退に反対するが、8月15日にはガザ地区の入植者に対して48時間の自主的退去が呼びかけられ、退去を拒否して籠城していたイスラエル入植者はイスラエル国防軍が強制排除し、9月12日までにガザ地区全域とヨルダン川西岸地区の一部にあるイスラエルの入植地は解体され、イスラエルの入植者とイスラエル軍は撤収。

パレスチナ人の抗議も下火になり、第二次インティファーダは終息する。

ハマスの台頭

イスラエルによる「隔離壁」の建設や地区封鎖によってパレスチナ人は生活に困窮する中、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治政府はイスラエル軍に包囲され、当初の方針を転換して武装抗争を放棄したパレスチナ自治政府の求心力が低下するのと対象的に、ガザ地区で慈善活動を行いながらイスラエルに徹底抗戦の構えを崩さないハマスは支持を集め、2006年1月に実施されたパレスチナ議会選挙に参加。
ハマスは PLO最大派閥のファタハを凌いで 132議席中 74議席を獲得(ファタハは 45議席)し、予想外の勝利を収めてパレスチナ立法評議会で多数派となる。

イスラエル・米国・イギリスはハマスが選挙に参加することに難色を示し、イスラエルはパレスチナの議会選挙を妨害するため、パレスチナ立法評議会(PLC)やハマスのメンバーなど 選挙に関与した者を拘束 したほか、エルサレム内での選挙活動や公共の集会を禁止し、イスラエルの検問所でもパレスチナ人の行動を制限した。

選挙結果に対してもカーターセンターが「競争的で真に民主的」だったと評価するが、イスラエルと米国は強く反発し、イスラエルはパレスチナ自治政府との関係断絶を表明。
ハマスをテロ組織に認定している米国や EUもパレスチナ自治政府への財政支援を凍結、税収や関税の大部分をイスラエルに依存 しているパレスチナは財政危機に追い込まれ、公務員の給与や社会サービスの支払いに支障を来たし、パレスチナ自治政府の職員らはストライキを開始(2007年1月まで継続)する。

エジプト、サウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦は米国に対し、ハマスにチャンスを与えるよう求め、パレスチナ人の選択を理由に罰するのは得策ではないと主張するが、聞き入れられなかった。

ガザのハマス政府

2006年3月にハマスの指導者 イスマーイール・ハニヤ が首相に就任して新政権を樹立。
国民議会の議長を兼任しているアッバース大統領はファタハとハマスの協力を模索するが、和平プロセスを推進したい世俗主義のファタハと、イスラム主義でイスラエルにへの徹底抗戦を主張するハマスの溝は深く、パレスチナ自治政府は分裂状態となる。

ガザ地区ではファタハとハマスの治安部隊の指導者間で対立が激化し、2007年6月にハマスの治安部隊はファタハの治安部隊を攻撃してガザ地区を制圧し、ファタハの治安部隊はガザから撤退。
ヨルダン川西岸地区ではアッバース大統領が 6月14日にハニヤ首相を解任して サラム・ファイヤド を首相に任命するとともに非常事態宣言を発令するが、ハニヤ氏はアッバース大統領の政令に従わず、ガザ地区でハマスによる支配権を確立する。

アラファト議長が対話路線に転換してから燻っていたファタハを中心とする世俗主義の PLO加盟組織とハマスのようなイスラム主義組織のわだかまりは、パレスチナに二重の政権構造という最悪の形で顕在化する。

ハマスによるガザ地区の統治が始まるとイスラエルはガザ地区への封鎖政策を強化し、安全保障を口実にしてガザ地区との国境沿いにパレスチナ人の立ち入りを禁止する緩衝地帯に設置する。
ガザ地区は物資や人の移動が大きく制限されて輸出入が困難になり産業が停滞、国際的にも孤立しているハマス政府は財政危機に陥る。

ハマスにはイスラム改革によってイスラム主義国家を実現したイランや、「アラブの大義」を実行するカタールなどから支援を受けているが、経済が停滞しているため十分な財源を確保できていない。

ファタハとハマスは敵対関係になり、ガザ地区やヨルダン川西岸地区で銃撃戦や爆発物を使用した武力衝突が繰り返され、内紛状態になったパレスチナは治安が悪化、多くの市民が犠牲になった。

和解交渉が何度も行われるが、和平プロセスを推進するファタハと徹底抗戦を主張するハマスの和睦は難しく、2017年10月にエジプトの仲介によってハマスはガザ地区の行政権をファタハに返還する取り決めに署名するが、移行プロセスや実務的な問題で合意内容の履行が遅れ、両政党は対立したまま実現には至っていない。

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