社会・時事

ユダヤ教とユダヤ人の歴史 – パレスチナ問題(1)

ユダヤ人

ユダヤ人は特定の民族ではなく ユダヤ教 (旧約聖書を聖典とした一神教)を信仰している人々のことで、宗教的な信条や共通の文化的伝統、歴史的な繋がりによって結ばれており、母系主義が一般的なため母親がユダヤ教徒の場合は子もユダヤ人とみなされる。

ユダヤ人は様々な地域に移住し、異なる文化や言語に適応しながら、共通の宗教的な信条や文化的な特徴を保持してきた歴史があり、世界的に広がる多様なコミュニティ「ディアスポラ」を形成し、ユダヤ人世界会議、シオニスト機構協会 (ZOA)、名誉毀損防止同盟(ADL)、米国・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)など各国の政財界に多大な影響力を持つ団体が複数ある。

出エジプト記

神の啓示を受けたアブラハムは約束の地カナン(現在のパレスチナ・イスラエル周辺地域)に移住し、イサク(アブラハムの子)の子ヤコブがヤボク川の渡しで神との格闘に勝利し、神から「イスラエル(神と闘う者)」の名を授かる。

ヤコブの12人の子はカナンを中心に12部族(イスラエルの12部族)に分かれて土地を相続するが、イスラエル(ヤコブ)から贔屓されていたヨセフが兄弟の妬みを買い、奴隷としてエジプトに売られる。
ヨセフは持ち前の才覚によって奴隷からエジプト王の側近にまで成り上がり、食料を備蓄してエジプトを飢饉から救い、カナンの地で飢餓に苦しむ兄弟たちもヨセフを頼り、食料を求めてエジプトに定住することになる。

異なる宗教と文化を持ち、エジプトで人口が増えていったイスラエルの12部族の末裔に対し、エジプトの支配層は不安や恐れを感じはじめ、紀元前15~13世紀頃にはエジプト人に支配され、奴隷として重労働を強いられるようになり、神の啓示を受けたモーセによって解放される。
モーセはシナイ山で トーラー(モーセ五書)を受け取り、モーセの死後は預言者ヨシュアが引き継いで約束の地「カナン」に帰還する。

民族としてユダヤ人は、旧約聖書で神の啓示を受け、カナン地方に住むように命じられたヘブライ人のアブラハムを祖としているが、ヘブライ人は特定の民族を示すものではなく、人種としてはアッカド人・アッシリア人・バビロニア人・エブラ人などセム系(セム語を話す民族)の民族だったと考えられている。

イスラエル王国の建国と崩壊

カナンに帰還したイスラエルの12部族は、紀元前 11世紀後半に預言者サムエルによって選ばれたトバ族の サウル を王としてイスラエル王国を建立し、ユダヤ人による国家を形成。

建国後まもなくイスラエル王国にペリシテ軍が侵攻、サウル王がペリシテ人との戦いに苦戦する中、羊飼いだった ユダ族ダビデ が投石器を使ってペリシテの巨兵 ゴリアテ を倒し、ペリシテ軍を打ち破る。
サウルは神の命令に従わなかったことで見放され、ペリシテ軍の再侵攻の際に敗北して自殺し、預言者サムエルによってダビデが次代の王として選ばれる。

ダビデ王はエルサレムを王都に定めてイスラエル王国を強固な国家として発展させ、イスラエル王国はダビデの子 ソロモン 王の時代に最盛期を迎えるが、ソロモンの子 レハブアム の治世で重税や賦役などを課して諸部族の反感を招き、10部族が反旗を翻してイスラエル王国(北イスラエル王国)を建国、レハブアムと 2部族(ユダ族とベニヤミン族)はユダ王国(南ユダ王国)を建国して分裂。

紀元前722年にアッシリア帝国の侵攻によって北イスラエル王国の首都サマリアが陥落、アッシリアはイスラエル王国の住民を捕虜として連れ去り、国土はアッシリアに併合されてイスラエル王国は滅亡。
ユダ王国も紀元前586年に新バビロニア帝国に攻め込まれて首都エルサレムが陥落し、支配者や貴族がバビロニアに連行(バビロン捕囚)され、ユダ王国も滅亡する。

ユダヤ人やユダヤ教の「ユダヤ」は「ユダ族の末裔」もしくは「ユダ王国」を指しており、現在のイスラエルの国旗にも入っている六芒星が「ダビデの星」と言われるのは、ダビデ王が用いた盾に入っていた紋章が由来だという説がある。

亡国の民となったイスラエル12部族の末裔は信仰の拠点を失い、強制移住させられて新しい環境や文化と接触し、民族としてのアイデンティティを維持するため、宗教的な文献の記述や神話など形成し ユダヤ教 として進化させる。

マカバイ戦争 – ハスモン朝

ユダ王国を滅ぼした新バビロニア帝国はペルシャに滅ぼされ、ペルシャ(アケメネス朝)の王クロイスがバビロンに移住していたユダヤ人に帰還を許可、エルサレムに戻ったユダヤ人はエルサレムの神殿を再建し、信仰の中心地として再興する。

バビロン捕囚以降に進化したユダヤ教は、再興されたエルサレムで宗教的な指導者である預言者や宗教法学者によって、トーラー(旧約聖書)の教義や法律が整理され、ユダヤ人の宗教的・社会的な組織が再構築される。

ペルシャは紀元前330年にマケドニアのアレキサンダー大王によって滅ぼされ、エルサレムもマケドニア帝国の支配下に入るが、紀元前167年にユダヤ人の司祭である マッタティアス と息子の ユダ・マカバイ が指導して反乱を起こし、紀元前160年まで続く マカバイ戦争 が勃発。

戦争は一進一退の攻防が繰り広げられたが、アンティオコス5世の摂政を務めていた リュシアス が戦象を含む大規模な別働隊を編成して進軍し、一時はエルサレムを包囲するに至るが、遠征中に共和政ローマに人質として送られていたセレウコス4世の子 デメトリオス1世 がローマから逃亡したため、首都への帰還を余儀なくされ、ユダヤ人の信仰を許可する条件としてシリアに宗主権を認めるという内容で和議を結んで撤退する。

その後、アンティオコス5世とリュシアスはデメトリオス1世との権力争いに敗れて処刑される。

戦争は終結するが、セレウコス朝に任命された大司祭 アルキモス に対してユダ・マカバイが再び反乱を起こしたため、アルキモスはデメトリオス1世に支援を要請。
セレウコス朝は将軍バッキデスを派遣し、紀元前160年のエラサの戦いで反乱軍を撃破し、この戦いでユダ・マカバイが戦死してマカバイ戦争が終結。

ユダ・マカバイ亡き後はユダの弟の ヨナタン が指導者となり、セレウコス朝の内紛を利用した巧みな政治力で紀元前152年に大司祭に任命され、セレウコス朝の信任を得て、将軍・総督としての権限を認められ独立国家として礎を築くが、紀元前142年にシリアで反乱を起こしたディオドトス・トリュフォンに捕らえらて殺害される。

シリアが内戦状態の中、シリアの君主 デメトリオス2世ニカトル はユダヤ人の自治を認め、ヨナタンの後を継いで大司祭になったヨナタンの兄 シモン がユダヤの統治者となる。
シモンは紀元前141年にエルサレムを攻略し、共和政ローマとスパルタから独立の承認を得て、ユダヤ人の独立国家 ハスモン朝 を樹立。

ハスモン朝は紀元前37年まで続くが、権力争いなどの内患や悪政によって次第に衰退し、紀元前63年にセレウコス朝シリアを滅亡させた共和政ローマの グナエウス・ポンペイウス が進軍。
ポンペイウスは暗愚なヒルカノス2世を後ろ盾となってエルサレム攻防戦に勝利し、アリストブロス2世をローマに連行し、ヒルカノス2世の王位を剥奪して大司祭にして復職させ、辛うじて自治権は有していたものの、実質的なローマの属国となる。

ヘデロ朝

紀元前47年に共和制ローマの ガイウス・ユリウス・カエサル はピリッポス2世に仕えていた武将 アンティパトロス2世 をユダヤ地区(ユダヤ属州)の統治代理人に任命し、アンティパトロスは息子の ファサエロス にエルサレム周辺、ヘロデ をガラリア地方の総督に任命して統治させる。

アンティパトロス2世は紀元前43年に暗殺(詳細は不明)され、ファサエロスとヘロデが共同で統治代理人を引き継ぐが、紀元前40年にアリストブロス2世の子 アンティゴノス がパルティアの支援を受けてユダヤ地区に侵攻し、ファサエロスを殺害。
ヘデロは共和制ローマに支援を求め、ローマは マルクス・アントニウス を派遣して紀元前37年にアンティゴノスを討伐し、共和制ローマはヘデロに「ユダヤ人の王」の称号を与えてユダヤ属州を委任し、ヘデロ朝 が成立する。

イエスの誕生と死 – キリスト殺し

一神教のユダヤ人は多神教(ローマ神話)のローマ人から異教徒として差別や偏見を受けており、ローマ帝国に不満を抱く一方で、聖典(旧約聖書)に記されているメシア(救世主)の到来を待ち望むようになっていた。

そんな中、ヨルダン川沿岸で洗礼や伝道活動をしていたユダヤ教徒の ヨハネイエス の出現を予言。
メシアの到来を渇望していた一部のユダヤ人はイエスをメシアとして受け入れ、その教えに魅了されてイエスの影響力は拡大していくが、ユダヤ教のラビや預言者など一部の指導的な立場の者はイエスをユダヤ教の宗教法に違反している「異端者」と見做し、自らを「ユダヤ人の王」と名乗るイエスを「反逆者」としてローマ帝国に告訴。

イエスは十二使徒の一人ユダの裏切りによって、銀貨30枚でローマ帝国に身柄を引き渡され、ゴルゴダの丘で十字架刑に処される。

ユダヤ教の指導者の思惑とは裏腹に、キリストの死後、その教えは使徒や伝道者の布教活動によって広まり、西暦312年にはローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス帝によって公認され、皇帝自らもキリスト教に改宗したことで、キリスト教はローマ帝国内に広まり、ローマ帝国崩壊後も国家や王国の公式宗教となって文化や政治に大きな影響力を持つようになる一方で、ユダヤ教の指導者がイエスを死に追いやったことから、キリスト教徒はユダヤ人に対して「キリスト殺し」の偏見を持ち、差別や迫害が助長されることになる。

ユダヤ戦争・バル・コクバの反乱

ヘロデ大王が紀元前4年に死去した後は、王位継承争いや民衆のデモなどが起こり、西暦44年に大王の孫 アグリッパ1世 がに病死するとユダヤ地域(ユダヤ属州)はローマの直轄領となるが、66年にローマ帝国への不満を募らせたユダヤ人の過激派が暴動を起こす。(第一次ユダヤ戦争

西暦70年、ローマ軍は圧倒的な兵力で進軍してエルサレムを陥落(エルサレム攻囲戦)、73年にはマサダ砦に立て籠もっていたユダヤ人が敗北を悟って集団自決して戦争が終結する。

第一次ユダヤ戦争が武力で制圧されたこともあり、ローマ帝国に対するユダヤ人の反感が増幅していく中、第14代ローマ皇帝 プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス がエルサレム攻囲戦で荒廃したエルサレムの再建時にローマ神話の主神ユピテルの神殿を建て、エルサレムの名称を「アエリア・カピトリナ」に変更することを知り、不満を爆発させたユダヤ人は反乱計画を練って132年に バル・コクバ を指導者として決起。

バル・コクバは シオメン が自称した「星の子」というメシアの称号だが、ユダヤ教のラビ アキバ・ベン・ヨセフ が支持して人気を得る。

反乱軍は各地でローマ軍を破ってユダヤ地区を支配下に収めることに成功して「イスラエルの復興」を宣言するが、ローマ皇帝ハドリアヌスは名将 セクストゥス・ユリウス・セウェルス をユダヤ属州のレガトゥス(元首属州総督)に任命。
セウェルスはユダヤ各地を制圧し、135年にエルサレムを陥落させて 第ニ次ユダヤ戦争 とも呼ばれるバル・コクバの反乱は終結する。

反乱軍は全員が処刑され、ユダヤ教に反乱因子があると考えたハドリアヌス帝はユダヤ暦を廃止し、ユダヤ教の指導者(ラビ)を殺害、トーラー(聖典)は破棄、エルサレムを「アエリア・カピトリナ」に改名してユダヤ人の立ち入りを禁じ、ユダヤ属州はユダヤ人と敵対関係にある「ペリシテ人の土地」という意味を含んだ シリア・パレスチナ属州 に改められ、エルサレム周辺からユダヤ人を排斥する。

西暦313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世とリキニウスが連名で発布したミラノ勅令により、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを許可されたと考えられているが、詳細な時期や具体的な内容は明らかになっていない。

キリスト教徒社会での迫害

ローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン民族やフン族などの侵入や内紛により西ローマ帝国が滅亡した西暦476年以降、中世ヨーロッパの時代にキリスト教は政治・社会・文化の中心位置するようになり、ローマカトリック教会が大きな権威を持つようになる。

当時のカトリック教会は利息を取ることを厳しく禁止していたが、ユダヤ教の信徒であるユダヤ人は対象外で、利息を付けて貸付を行う金融業や仲買人はユダヤ人の仕事になり、職業差別や偏見に繋がった一方で、抑圧されたユダヤ人のコミュニティは結束が強く、教育を重視していたため商取引や金融取引をより効果的に行い、経済的に成功する者が多かった。

経済的な成功を収めたユダヤ人はキリスト教徒から妬まれ、中世ヨーロッパ後期になるとユダヤ人に対する制約や差別が顕著になり、ユダヤ人は周囲を壁で囲まれた居住区(ゲットー)に住むことを強制され、キリスト教徒社会から隔離されたほか、異端審問による拷問や十字軍による虐殺などの悲劇に見舞われ、ペストや飢饉などの災害時にはユダヤ人が原因とされて迫害を受ける。

ユダヤ人はバビロン捕囚以降、ローマ帝国の滅亡や中世ヨーロッパでの迫害という歴史の中で世界中に移住して、「ディアスポラ」と知られているコミュニティを形成。
各地の社会や文化に適応しながらも、独自アイデンティティによって結束しており、近代以降では潤沢な資金を使ってロビー活動を行い、ユダヤ人の人権保護など様々な政治活動を行っている。

シオニズム

1896年、オーストリア=ハンガリー帝国生まれのユダヤ系ジャーナリストであり、政治家の テオドール・ヘルツル は、かつてユダヤ人の国「イスラエル王国」のあったパレスチナにユダヤ人国家の建設を提唱する「ユダヤ国家」を発表し、これがユダヤ人国家の建設と維持を主張する シオニズム の始まりとなる。

テオドール・ヘルツルの「ユダヤ国家」は 1894年にドイツにフランスの機密情報を提供しているとしてスパイ容疑で逮捕されたユダヤ人でフランス軍情報部の陸軍大尉 アルフレッド・ドレフュス の冤罪事件(ドレフュス事件)に衝撃を受け、ユダヤ人国家の必要性を訴えたもので、ドレフュスは当時の反ユダヤ主義の影響により裁判で有罪判決を受けてデビル島に投獄され、後に冤罪が明らかになって 1906年に無罪が確定する。

中世からの継続しているユダヤ人に対する偏見や差別に加え、国によってはユダヤ人を異なる民族と見做し、国家の純粋性を損なう存在として人種差別に発展する中、安全かつ自由に生活できるユダヤ人国家建設への願望は強まり、1897年にテオドール・ヘルツルの主催で開催された第一回「世界シオニスト会議」で、ユダヤ人国家(イスラエル)の創設と発展を目的とした シオニスト機構 (現在は世界シオニスト機構)が設立。

世界シオニスト機構の活動には、ユダヤ人の入植地の確保、資金調達、国際的な支持獲得などが含まれ、様々なプロジェクトやロビー活動を展開し、国際的なユダヤ人社会に大きな影響力を持つようになる。

ドレフェス事件は人権と正義のために闘うシンボルとなったが、反ユダヤ主義とユダヤ人への差別は 20世紀初頭になっても続き、第二次世界大戦時にナチス・ドイツによるホロコーストという最悪の形で表れることになる。