社会・時事

パレスチナ戦争 – パレスチナ問題(5)

英米調査委員会の勧告

第二次世界大戦が終結すると、ホロコーストによって多くのユダヤ人が犠牲になり、米国のトルーマン大統領はホロコーストの生存者 10万人のパレスチナ入国を要請するが、イギリスは 1939年の白書に沿ってユダヤ人の移住を制限。
国際世論のユダヤ人への同情もあってシオニズム運動はかつてない機運を迎え、国際シオニスト機構は米ソなど影響力のある国で積極的なロビー活動を行い、ユダヤ人独立国家を必要性を訴える中、米国は白書を撤回するようイギリスに圧力をかけ、アラブ人の抵抗を懸念したイギリスは米国を巻き込む形で 1946年 1月に 英米調査委員会 を招集し、委員会は 4月に全会一致で白書の撤回と10万人のユダヤ人難民の即時受け入れを勧告する。

トルーマン大統領は紳士服店を共同で運営したことのあるユダヤ人の実業家 エディ・ヤコブソン と親友で、シオニストでもあるエディ・ヤコブソンの説得とユダヤ人団体の支援に後押しされ、シオニストの要望に耳を傾けるようになり、1948年の大統領選挙では、ユダヤ人団体からの献金額は 200万~400万ドル(2億4千万~4億8千万)と推定されている。

反ユダヤ主義が根強く残る欧州において、ナチス・ドイツが犯したホロコーストという大罪は、シオニストの思惑に利用され、シオニストに懐柔された欧米の政治家によって、パレスチナの先住アラブ人が代償を払うという歪な経過をたどることになる。

国連によるパレスチナ分割(決議181)

英米調査委員会の勧告に対してアラブ諸国は反発し、パレスチナのヨーロッパ系ユダヤ人の絶滅を要求するなど暴力的なデモが実施され、ジハード(聖戦)が叫ばれる。
一方、パレスチナでは当初ユダヤ難民の受け入れを拒否したイギリス当局に対しての不満が募り、パレスチナのユダヤ民兵組織 ハガナー とハガナーの分派 イルグン(ユダヤ民族軍事機構)、レヒ(イスラエル解放戦士団)が「ユダヤ・レジスタンス・ムーブメント(URM)」を結成し、強制収容所を襲撃してイギリス当局に捕らえられていたユダヤ人の不法移民 200名を解放したほか、鉄道や駅、橋の爆破などのテロ活動を行ってパレスチナのイギリス当局に抵抗。

1947年2月、イギリスは悪化するパレスチナ問題を国連に付託し、パレスチナ委任統治を終了する意向を発表。
国際連合はパレスチナ問題を調査するため 1947年9月に11ヶ国の代表で構成される 国連パレスチナ特別委員会 (UNSCOP)を設立し、UNSCOPは経済連合を伴う独立国家の分割計画を提案。

ユダヤ側は分割案を支持するが、パレスチナのアラブ人指導部とアラブ諸国は拒否。
分割案を実現したいユダヤ側と否決に持ち込みたいアラブ側が対立する中、1947年11月、国連総会は境界線が一部修正された パレスチナ分割計画を採決し、国連加盟国 57ヶ国のうち賛成 33、反対 13、棄権 10、欠席 1によって分割案(決議181)は可決される。

賛成票は選挙でユダヤ人団体の支持を得たい米国と、米国から援助削減など外交圧力をかけられたと言われるリビアやフィリピン、ハイチ、米国との友好関係を優先したフランスやベルギーなどの国が含まれ、パレスチナの混乱を招いたイギリスは棄権。
アラブ諸国とインド、トルコ、ギリシアのほか、外交圧力を受けながらもアラブ諸国を支持したキューバは反対票を投じた。

反対票を投じたインドのネルー首相はシオニストから数百万ドルの賄賂の打診と、インド国連大使への脅迫があったと発言しており、パレスチナ分割案は非合法な手段を含むシオニスト団体のロビー活動と、キリスト教福音派の離反を恐れる米国政府の外交圧力、米国に忖度した国によって、当事者であるパレスチナ・アラブ人とアラブ諸国の意志を反して採用される。

パレスチナ戦争(第一次中東戦争)

パレスチナ分割案が可決されとパレスチナでは歓喜に沸くユダヤ人と憤慨して抗議するアラブ人が対立、アラブ人・ユダヤ人双方のテロ行為による犠牲者が続出して内戦状態に陥る。

1947年12月、パレスチナの民族主義者 アブドゥル・カーディル・アル・フセイニ は志願兵を募り、数千人の「聖戦軍」を率いて10万人のユダヤ人が在住するエルサレムを封鎖し、救援を試みたユダヤ民兵組織ハガナーが大きな損害を被るなど対立が激化。

1948年1月、アラブ連盟(エジプト・シリア・イラク・ヨルダン・レバノン・サウジアラビア)は志願兵と軍隊の一部で アラブ解放軍(ALA)を結成。
一方、ハガナーはアラブ軍の侵攻阻止と国連で定められた国境付近を征服するための軍事計画 ダレット計画(プランD)を作成、17歳から 25歳までのすべての男性を動員して軍事訓練を行い、1948年3月末に反攻を開始する。

プランDでは国境付近の制圧後に抵抗するアラブ人の追放や、ユダヤ共同体が存在する国境を超えた地域の征服についても記されており、シオニストが当初から国連の定めた国境に従うつもりがなかった可能性が指摘されている。

中東情勢が緊迫する中、1948年3月19日に米国のトルーマン大統領はアラブ諸国がソビエトと緊密になることの懸念と、石油の安定確保の必要性もあって、パレスチナ分割案の支持撤回と国連による一時的な委任統治を提案し、中東地域での中立的な立場を維持しようと試みる。
アラブ連盟は米国の決定を歓迎するが、提案はアラブ諸国にもユダヤ側にも拒否される。

パレスチナ分割案の支持撤回はシオニストに肩入れしすぎたトルーマン政権の軌道修正だが、当然ながらユダヤ団体からの反感を買うが、5月のイスラエル建国宣言の際に建国を承認したことで再び支持され、11月の大統領選挙で再選することになる。

デイル・ヤシーンの虐殺

1948年4月9日、エルサレムがアル・フセイニの聖戦軍に封鎖されている中、イルグン(ユダヤ民族軍事機構)とレヒ(イスラエル解放戦士団)の部隊はエルサレム西部のアラブ人村落デイル・ヤシーンを占拠し、女性や子供を含む非武装の民間人 100以上を虐殺、デイル・ヤシーンはユダヤ領に組み込まれ、虐殺されたアラブ人の土地・財産はユダヤ人が没収する。

デイル・ヤシーンの事件を切欠に、ユダヤ民兵組織の残虐さに身の危険を感じたユダヤ領のアラブ人がヨルダンやエジプトのキャンプに逃れ、停戦時には 70万人以上のアラブ人が パレスチナ難民 になった。

デイル・ヤシーンの虐殺についてハガナーの幹部は「不愉快な事件」としてイルグンとレヒを非難するが、この事件はダレット計画(プランD)に基づいて実行された大量追放計画であり、村落を襲撃して非武装の見せしめの惨殺やレイプを行ってアラブ人に恐怖を植え付け、アラブ人とユダヤ人が混在するユダヤ領からアラブ人追放するという非人道的な作戦だった。

聖戦軍によって封鎖が続いていたエルサレムは、4月8日に指揮官のアル・フセイニが戦死したことでハガナーが制圧、4月4日に始まったアル・カウクジ率いるアラブ解放軍とハガナーとの10日間に渡る戦い(ミシュマール・ヘメツの戦い)でもアラブ解放軍は敗退し、周辺のアラブ人の村はハガナーに蹂躙される。

対立が激化する中、イギリスによる委任統治の期限である 1948年5月14日、世界シオニスト機構の事務局長でパレスチナユダヤ庁の議長を務めていた ダヴィド・ベン・グリオン は ユダヤ人の国家 イスラエル国 の樹立を宣言し、イスラエルの初代大統領になる。
イスラエル国に対して米国のトルーマン大統領とソビエトの指導者スターリンは新国家として即座に承認するが、アラブ連盟はアラブ人によるパレスチナ全土の自決権を宣言し、エジプト、イラク、トランスヨルダン、シリアの4ヶ国からイスラエルに侵攻、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発する。

イスラエルを国家として認めていない国連加盟国は 2020年時点でアラブ連盟やイスラム協力機構の加盟国などあわせて 28ヶ国ある。

停戦

5月29日に国連は停戦を宣言し、6月11日から7月8日まで停戦になるが、イスラエルもアラブ連盟も停戦協定を破って自軍の立て直しと強化を図る。

戦闘中、イスラエル防衛軍(旧ハガナー)はアラブ解放軍に占領されつつある領土や新たに開拓されたアラブ人の村の井戸水を腸チフス菌で汚染し、避難した住民の帰還を阻止する細菌戦を実行している。

その後も休戦と戦闘が繰り返されるが、民兵組織として活動してきたハガナーから構成されているイスラエル防衛軍が指揮系統や戦術に優れ、国内外から人員や武器、資金の支援があったのに対し、アラブ人武装組織はパレスチナ大反乱の疲弊から立ち直っておらず、アラブ解放軍も組織が分散して指揮統制が難しく、効果的に連携した戦術が実行できず、武器や物資などの補給も不十分だったこともあり、開戦当時は優勢だったアラブ勢力はイスラエル防衛軍に押されるようになる。

国連の働きかけもあってイスラエルは 1949年2月24日にエジプト、3月23日にレバノン、4月3日にトランスヨルダン、7月20日にシリアと休戦協定を結んで休戦境界線(グリーンライン)を設定、ガザ地区はエジプト、ヨルダン川西岸はトランスヨルダンに併合されてパレスチナ難民は無国籍となる。

休戦境界線は国境を定めたものではなかったが、イスラエルはパレスチナ難民の帰還や財産の返還を認めず、実質的にイスラエルが支配し、国境線や難民問題が解決しないまま、中東情勢は緊迫した状態が継続する。

カフル・カシムの虐殺

1956年7月26日にエジプトのナセル大統領はアスワン・ハイ・ダムの建設費を確保するためスエズ運河の国有化を宣言、イスラエルに対してチラン海峡を封鎖し、反発したイギリス・フランスに焚き付けられてイスラエルがエジプトに侵攻、スエズ戦争(第二次中東戦争)が勃発する。
1956年10月29日、イスラエル軍はエジプトへの侵攻を開始するが、イスラエル当局は戦時下の夜間外出禁止をグリーンライン上の村民に対して十分に通知しておらず、ヨルダン川西岸のグリーンライン上にあるカフル・カシムの村で、仕事から戻ってきたアラブ人を「違反者」と見做してイスラエル国境警察(マガブ)が殺害。
男性19名・女性6名・子供(8歳~17歳)23名、胎児1名が死亡、13名が負傷した。

虐殺に関与した国境警察は裁判で有罪となって7年~17年の懲役になるが、減刑や大統領恩赦などで 1959年11月までに全員が釈放され、国境警察の上級指揮官はわずか10イスラエルセント(現在の円換算で約10円)の罰金が課せられただけの茶番だった。

イスラエルは非難を浴びるが、正式に謝罪したのは 2007年当時の大統領 シモン・ペレス で、現在でもイスラエル国内では虐殺を正当化する動きがある。

パレスチナ解放機構(PLO)の結成

1964年5月28日、カイロで開催されたアラブ連盟サミット(アラブ首脳会談)において、武装闘争によるイスラエル国家の廃止と旧イギリス委任統治領全域でのパレスチナ国家の樹立を目標とした組織 パレスチナ解放機構(PLO)の設立を宣言、初代議長に アフマド・シュケイリ が選出され、カイロを本部として活動。

設立当時のPLOはナセル大統領の影響力が大きく、初代議長のアフマド・シュケイリはナセル大統領の側近で、パレスチナ解放戦線の創設者だった。

PLOは議決機関(日本の国会に相当)である パレスチナ民族評議会(PNC)と PLOの議長を中心とした行政機関を備えた亡命政府として設定され、それまで個別行動を取ることが多かったパレスチナの フェダイーン(自由の戦士)組織が加盟している。

PLO初期の加盟組織

  • パレスチナ解放戦線(PLF)
    1959年にアフマド・シュケイリによって設立された政党・武装組織
  • ファタハ
    1957年にヤセル・アラファトによって設立され政党・武装組織で、1967年に PLOに加盟
  • パレスチナ解放人民戦線(PFLP)
    1967年にジョージ・ハバシュによって設立されたマルクス・レーニン主義の政党・武装組織で、結成時にPLOに加盟
  • パレスチナ解放民主戦線(DFLP)
    1969年にPFLPから分離したマルクス・レーニン主義の政党・武装組織、結成時にPLOに加盟
  • サーイカ
    1966年にシリアのバアス党によって設立された政党・武装組織で、結成時にPLOに加盟

PLOは 第四次中東戦争終結後の 1974年10月に開催されたアラブ連盟の第7回サミットで「パレスチナ人の唯一の合法的な代表機関」として承認され、アラブ連盟はこの決定を通じて、PLOに対する団結と支持を表明する。

イスラエルは PLOをテロ組織に指定し、1990年の オスロ合意 まで敵対することになる。

パレスチナ民族憲章

PLOが設立されるとパレスチナ民族評議会(PNC)はパレスチナの国家的な権限と目的を規定した パレスチナ民族憲章 を採択。

  • イスラエルの否定
    イスラエルの国家樹立は不法という立場を表明
  • パレスチナの領土
    イスラエルを排斥したパレスチナの全土
  • パレスチナの国家的目的
    パレスチナの解放と独立、シオニズムの根絶
  • 武装闘争
    パレスチナ解放の唯一の手段が武装闘争であることを主張

六日戦争(第三次中東戦争)

1966年2月、シリアでバアス党内の分裂からクーデターが起こり、サラーフ・ジャディード を中心とした若手バアス党が権力を掌握し、シリアで最も急進的と言われるジャディード政権が成立。
PLOを支持していたジャディードは、即座にゴラン高原からイスラエル領内への砲撃を開始し、7月にはイスラエル空軍の F-4Eがシリア空軍と交戦してシリア空軍の MiG-21を 2機を撃墜、ゴラン高原の砲撃陣地を破壊する。

1966年11月13日、イスラエルとヨルダンの国境近くで、ファタハが埋めた地雷により国境警備隊の車両が破壊され、3人が死亡、6人が負傷。
イスラエルはヨルダンからの攻撃があった主張して、3000~4000人のイスラエル国防軍を動員し、戦車 11台、ハーフトラック 60台で国境を超えてヨルダンに侵攻し、ヨルダン川西岸のサム村を襲撃(サム事件)。
この事件により無関係なサム村の民間人 18名が死亡、54名が負傷し、イスラエル軍と交戦したヨルダン軍の兵士 15名が戦闘で死亡し、中東情勢は一気に緊迫する。

スエズ戦争(第二次中東戦争)でのイスラエルとの武力衝突で完敗したエジプトのナセル大統領は、アラブ諸国に連携強化を呼びかけてイスラエルに対抗する姿勢を強め、1966年11月にシリアと防衛協定を締結。
シリアとイスラエルの緊張が高まるのを受け、1967年5月16日にエジプトはスエズ戦争(第二次中東戦争)後に国連が派遣した平和維持部隊「国際連合緊急軍(UNEF)」の撤退を要請し、1967年5月22日にスエズ戦争の際と同じようにイスラエルに対してチラン海峡を封鎖、5月30日にはヨルダンとの防衛協定を結び、イスラエルに対する共同防衛体制を構築。
一方、イスラエルの後ろ盾となる米国はベトナム戦争の直中にあって疲弊しており、支援を受けられないイスラエルは苦境に立たされる。

ナセル大統領はエジプト軍を国境沿いに配置し、UNEFが駐屯地から離脱していた 1967年6月5日、イスラエルはエジプト・シリア・ヨルダンの領空を侵犯して空軍基地や施設を奇襲(フォーカス作戦)し、アラブ諸国の空軍力の約80%を壊滅させて制空権を掌握後に地上部隊を進軍させ、六日戦争(第三次中東戦争)が勃発。

不意をつかれたアラブ諸国の軍隊はイスラエル軍に圧倒され、イスラエル軍はシナイ半島とエジプトの統治下にあったガザ地区、ヨルダン川西岸地区、シリアのゴラン高原を占領する圧倒的な勝利を収め、6月10日までにエジプト・シリア・ヨルダンと国連安全保障理事会の停戦決議に従って休戦協定に署名、六日戦争が終結する。

国連安保理決議242号

国連安保理決議242号は 1967年11月22日に国連安全保障理事会で採択された決議で、イスラエルとアラブ諸国との和平を促進するために提案5つの原則を提案。

  • 六日戦争で占領した領土からのイスラエル軍の撤退
  • 中東のすべての国家が安全に生存できるような公正かつ永続的な平和の確保
  • 航行の自由の保障
  • 難民問題の公正な解決
  • 非武装地帯の設置を含む安全保障措置

イスラエルは 1968年5月1日に決議を受諾するが、決議には英語版とフランス語版で文章の解釈が異なり、フランス語版は占領した領土の記載部分に特定されていない複数を表す不定冠詞の(des) が付いているのに対し、英語版には特定のものを指す定冠詞(the)がなく、「占領した領土の一部」という解釈が可能で、イスラエルは英語版を根拠にして完全撤退を拒否。
「難民問題の公正な解決」に関しても具体的な方法や条件がなく、六日戦争では推定で 30万から40万人のパレスチナ人が周辺国の難民キャンプに非難したが、イスラエルは「イスラエルの民族的・宗教的アイデンティティを脅かす」として難民の帰還を拒否(国際世論の批判により一部の難民は帰還)する。

国連安保理決議242は中東和平プロセスのガイドラインとして位置付けられるなど重要な役割を果たす一方、「不確かな文書」「難民問題への言及の不足」「実効性の欠如」などアラブ諸国とシオニスト双方から批判を受け、アラブ諸国は敗戦の恥辱もあって、パレスチナ人とアラブ諸国の反イスラエル感情は更に高まっていく。