社会・時事

パレスチナ大反乱 – パレスチナ問題(4)

アラブ人の暴動

イギリス政府の主導でユダヤ人の入植が拡大してキブツ(集団農場)が作られると、土地を追われて生活に困窮する フェラヒーン(土地を持たないアラブ人の小作農)が増加し、理不尽に生計を脅かされるアラブ人の不満はユダヤ人と委任統治しているイギリスに向けられる。

ヤッファ暴動

1921年5月、ユダヤ人共産主義者によるヤッファからテルアビブへのメーデー行進の際に、対立関係にあるユダヤ人社会主義団体のパレードとエンカウントし、ユダヤ人同士で殴り合いの喧嘩が勃発。
パレスチナ警察はパレードを解散させるために威嚇発砲するが、銃声を聞いたアラブ人は自分たちが攻撃されていると思い込み、武装してユダヤ人を襲撃。これに対してユダヤ人の軍事組織ハガナーの過激派の指揮官は「幼い子供たちだけを残してすべてを破壊する」という命令を下し、アラブ人の住宅を襲撃して報復する。

ヘブロン虐殺

1929年8月15日、シオニストの青年組織 ベタル のメンバー数百人が「壁は我々のもの!」などのスローガンを叫びながらシオニスト運動の旗(現在のイスラエル国旗)を掲げてエルサレムの「嘆きの壁」に向かって行進した際に、ベタルのメンバーがアラブ人を攻撃し、ムハンマドを侮辱したという噂が広がる。
翌日、ムスリムのデモ隊が嘆きの壁まで行進し、壁に残されている祈りの書(シドゥール)や嘆願のメモを燃やしことを切欠にユダヤ人とアラブ人の緊張が高まり、8月22日には触発されたアラブ人が武装してエルサレムの旧市街地でユダヤ人を襲撃。
イギリス当局は暴徒を抑えることができず、暴動は周辺各地へと拡大にし、24日の朝にはヘブロンで武装したアラブ人がユダヤ人の住居を襲撃、67人のユダヤ人が殺害された ヘブロン虐殺 が発生する。

アル・カッサム – 過激派組織 Black Hand

1920年初頭からハイファ周辺で教鞭をとっていたイスラム教のイマーム(説教者)でカリスマ的な人気があった イズ・アドディン・アル・カッサム は、パレスチナの英国支配とシオニストによる入植を終わらせるため ジハード(聖戦)を提唱。

アル・カッサムは第一次世界大戦が始まるとオスマン帝国軍に入隊し、軍事訓練を受けてからチャプレン(牧師)としてダマスカスの基地に配属され、終戦直前に生まれ故郷のジャブレ(シリア・ラタキア県の都市)に戻るとシリアを占領するフランス軍と戦うために民兵組織を設立。
アル・カッサムの抵抗軍はゲリラ戦を展開してフランス軍に対抗するが、フランス軍はジャブレを支配するとカッサムを支援する地主に圧力をかけ、抵抗軍は財政支援を受けられなくなり、タルトゥース(シリア・ラタキア県の都市)からベイルートを経由してパレスチナのハイファに拠点を移す。

セメント事件

1935年10月にヤッファ港の停泊したベルギーの貨物船でユダヤ人商人宛の積み荷(セメント缶)から大量の武器が見つかる。
ヘブロン虐殺が発生してからユダヤ人の軍事組織ハガナーが密輸を行っていることは周知の事実だったため、販売者や受取人不明として未解決にしたパレスチナ警察にアラブ人から抗議が殺到。

シオニストがアラブ人との衝突に備えて大規模な軍事力を蓄えていることと、イギリス政府の忖度が裏付けされ、アラブ人の危機感は増大する。

ヘブロン虐殺の発生後、アル・カッサムは支持者を数百人を複数のグループに分けて軍事訓練を行うと同時にイスラム教による道徳教育を実施するが、即時の武装蜂起を主張する弟子の アブ・イブラヒム・アル・カビール と対立。

アブ・イブラヒムは後に ブラックハンド として知られる武装集団を結成し、1931年からゲリラ戦を展開してユダヤ人の入植地襲撃や英国が行っていた鉄道建設を妨害し、貧困に苦しむアラブ人から支持を集める。
一方、武装蜂起が時期尚早だと考えていたアル・カッサムは組織を運営しながら各地でジハードを提唱する演説を行っていたが、1935年に組織のメンバーが警官2人を射殺したことでパレスチナ警察から追われ、潜伏先の洞窟で最後まで抵抗して銃撃戦の末に射殺される。

アル・カッサムの死に怒ったアラブ人はハイファなど複数の都市でデモを行い、ハイファで行われた葬儀には数千人が集まり、カッサムとメンバーの棺にはサウジアラビア、イラクなど独立に成功した国の国旗がかけられた。

アル・カッサムの最後は「抵抗の象徴」となり、武装集団とジハードの理念は民衆の武力闘争という現在に至る抵抗勢力の原点になる。

パレスチナ解放人民戦線のレイラ・ハレドは「自分の組織はアル・カッサムが去ったところから始まった、彼の世代が革命を始めた。」と言ったように、イスラム過激派組織にとってアル・カッサムはカリスマであり、過激派組織ハマスの軍事部門(イッズッディーン・アル=カッサーム旅団)や短距離ロケット(カッサムロケット)の名称にも使用されている。

パレスチナ大反乱(アラブ反乱)の勃発

1920年に結成されたナチ党は 1932年7月の総選挙で第一党になり、1933年1月に党首 アドルフ・ヒトラーヒンデンブルク大統領 から首相に任命される。
1933年3月にはライヒスターク法(委任法)が制定され、ヒトラーは政府の立法権を掌握、1934年8月のヒンデンブルク大統領の死に伴って大統領の権限を継承して総統となり、ナチスによる独裁体制を確立。

ユダヤ人の市民権を剥奪し、ニュルンベルク法を制定するなど、ナチ党による反ユダヤ政策が本格化すると、ヨーロッパからの大勢のユダヤ人がパレスチナに流入し、アラブ人とユダヤ人の対立が激化する。

1933年~36年の4年間で16.4万人以上のユダヤ人がパレスチナに入植し、1931年~36年の間にユダヤ人人口は17.5万人から2倍以上の37万人に増加する。

アナブタ銃撃事件(トゥールカリム銃乱射事件)

1936年4月15日にアル・カッサムの信奉者がトゥールカリム県アナブタ近郊の道路にバリケードを築き、通行する車両を止めて武器と現金を要求。その際、ユダヤ人3名を射殺(アナブタ銃撃事件 )する。
翌日の夜、ユダヤ人の軍事組織ハガナーの分派 ユダヤ民族軍事機構 (イルグン)は、報復としてペタフ・ティクヴァ近郊の農園で、就寝中のアラブ人労働者2名を殺害。
4月17日にテルアビブで行われた殺害されたユダヤ人(イスラエル・チャザン氏)の葬儀には、アラブ人に対する抗議者数千人がデモ行進し、通行中のアラブ人やアラブ人労働者を虐待、ヤッファでは住居も襲撃される。
4月19日、ヤッファで暴徒と化したアラブ人がユダヤ人の居住区を襲撃したのを始め、地方で武装した集団が次々に蜂起する。

混乱の最中、1936年4月に設立された アラブ高等委員会(Arab Higher Committee)はユダヤ人の移民の禁止とアラブ人の土地の保護を求めるストライキを呼びかけ、アラブ人労働者がゼネラル・ストライキを決行し、ユダヤ人入植地の労働力不足やイギリスの行政機関の混乱を引き起こす一方、ゼネスト開始から地方の武装勢力が次第に集結し、反政府勢力の武装集団となってユダヤ人の居住区やキブツなどの襲撃、3年に渡って続く パレスチナ大反乱 が始まる。

日本ではパレスチナ大反乱(アラブ反乱)を「パレスチナ独立戦争」と表示することもある。

アラブ反乱軍はアラブ人から支持され、各地の村民から支援を受けていたため、イギリスは治安維持を名目として軍隊に令状なしの家宅捜索、夜襲、予防拘禁、むち打ち、国外追放、財産の没収、拷問などの権限を与え、1936年5月には装甲車両を備えた武装ユダヤ部隊を編成。
イギリス軍の措置はアラブ人の反感を買い、反乱軍と村民の連携を強固にし、反乱軍との戦闘は激化する。

1936年7月にはアラブ民族主義者の軍人 ファウズィ・アル・カウクジ がシリアとトランスヨルダンからアラブ人の志願兵を率いて反乱軍を支援。
事態を重く見たイギリス政府はパレスチナに2万の英国軍を派遣する。

ピール委員会

イギリスの要請を受けたトランスヨルダン、イラク、サウジアラビア、エジプトなどがゼネストの中止を訴えたこともあり、10月7日に半年続いたストライキは中止。
イギリスは騒乱の原因を調査するため ウィリアム・ロバート・ウェルズリー・ピール 伯爵をパレスチナ王立委員会(ピール委員会)の委員長に任命してパレスチナに派遣、ピール委員会の審議中は休戦状態になる。

すでにパレスチナでは イスラム教徒最高評議会 がアラブ人の自治を行い、ユダヤ人も ユダヤ庁 が自治を管理して分裂状態にあり、ピール委員会は 1937年7月に委任統治が不可能だとしてパレスチナ分割を勧告する報告書を発表。

ピールの報告書は対立の要因としアラブ人・ユダヤ人双方の強い民族主義を挙げ、ユダヤ人の教育に触れて、ユダヤ教の教育制度により、幼少時から排他的なユダヤ人国家設立が刷り込まれるため、民族間の理解を深めるどころか、民族主義者が増える一方で、共存を難しくしていると指摘。

分割はユダヤ人の土地所有人口に基づき、国内で最も生産性の高い農地を組み入れた小規模なユダヤ人国家を設立し、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教にとって重要なエルサレム周辺をイギリスの委任統治、残りの領土を隣接するトランスヨルダンと併合してアラブ国家とする案と、22万5千人のアラブ人と1250人のユダヤ人を移転させる案を提案。

分割案に対してアラブ人は「パレスチナをユダヤ人国家に変える意図がない」というチャーチル白書の反故であり、エルサレムが領土に組み込まれておらず、独立国家ではなくトランスヨルダンと併合されることなどに反発。
一方、ユダヤ人も一部のシオニストが反対するが、第20回シオニスト会議ではピール報告書をユダヤ独立国家の基礎と見做し、ユダヤ国家が小さすぎるとして国境について拒否しつつ、ユダヤ庁は諜報部を使ってピール委員会の公聴会を盗聴するなどして情報を収集し、領土拡大の交渉に乗り出す。

反乱の再開と鎮圧

パレスチナでゼネストが決行される一ヶ月前の1936年3月、ナチス・ドイツは再軍備政策の一環としてヴェルサイユ条約で軍隊の配置が禁止されたラインラントに進駐。
軍事力を拡大したナチス・ドイツが台頭する中、ピール報告書の分割案を強行するとパレスチナだけでなくアラブ諸国が敵対する懸念があることから、イギリス政府は実行が不可能だとしてピール報告書の分割案を拒否する。

アミーン・フサイニー

ピール報告書がイギリス政府に拒否された二ヶ月後の1937年9月、ガラリア地方でユダヤ人の入植を支援していたオーストラリアの軍人 ルイス・イェランド・アンドリュース がナザレの教会前でアル・カッサムを信奉する武装勢力によって暗殺される。
イギリス当局は容疑者として100名以上を逮捕して拷問や強姦が行われ、1937年10月1日にはすべてのアラブ民族主義組織を禁止して武装を解除、国境は閉鎖され、近隣諸国との電話接続を廃止、報道検閲が導入されるなど戦時状態になり、主導者と見做されたアラブ高等委員会のイスラム最高評議会議長 アミーン・フサイニージャマル・フサイニー などの指導者は逮捕を免れるため国外に逃亡。

各地で蜂起したアラブ人の武装勢力はゲリラ活動を展開するが、1937年11月14日にユダヤ人の武装組織 イルグン が「積極的防衛」として、アラブ人民間人に対する無差別攻撃を開始(黒い日曜日)し、パレスチナは混沌とした内戦状態に陥る。

後にジャマル・フサイニーは「ユダヤ人がパレスチナを地獄に変えた」と発言している。

すべてのアラブ人が反乱を支持していたわけではなく、アミーン・フサイニーと対立関係にあり、エルサレムの市長だった ラーギブ・アル=ナシャシビ の甥 ファクリ・ナシャシビ は反乱勢力と戦う部隊「ピースバンド」 を組織してイギリス当局に貢献するなど、アラブ勢力は一枚岩ではなかった。

アラブ人とユダヤ人の過激派武装勢力はテロ行為を繰り返し、事態を制御できなくなったイギリス政府はパレスチナを民政から軍政に切り替え、兵力を増強して 1938年10月に反乱軍の拠点になっていたエルサレムの旧市街地を制圧し、1938年末までにはある程度の秩序は回復する。

反乱の終結

1939年2月、イギリスは「ロンドン会議」でアラブ人・ユダヤ人の代表と個別に会談して協定交渉をするが、同意が得られず失敗し、5月に「白書」でバルフォア宣言の終了と 5年間のユダヤ人移民の制限、10年以内のパレスチナ独立政府の設立を発表。

シオニストは白書を拒絶し、ユダヤ人のゼネストが呼びかけられたほか、イルグンにより38名のアラブ民間人が殺害される。
アラブ側も白書の内容を不十分としてユダヤ人移民の完全禁止とユダヤ国家設立の完全な否定を要求するが、イギリス軍の攻撃により反乱勢力が疲弊して戦略的に不利な状況にあり、白書に賛同する指導者もいるため協調を維持するのが難しくなっていたところに、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発。

開戦の影響でイギリスはヨーロッパに注力し、アラブの反抗勢力に対する資金や支援も減少していたため、パレスチナ大反乱はフェードアウトし、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した 1939年 9月をもって終結する。

パレスチナ大反乱には 5万人のイギリス軍と 1万5千人のハガナーの民兵が介入し、 1939年9月に終結するまでに 5000人以上のアラブ人と 300人以上のユダヤ人が殺害された。

パレスチナ戦争 – パレスチナ問題(5)