社会・時事

イスラム教とイスラム世界の歴史 – パレスチナ問題(2)

イスラム教

イスラム教は 7世紀にメッカの預言者でアラブ人の ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(マホメット)が天使ジブリール(ガブリエル)から神(アッラー)の啓示を受け、聖典(コーラン)にまとめて人々に伝えたのが始まりで、多部族・多神教だった当時のアラビア半島の背景もあって、イスラム教の教義や経典にはアブラハム・モーセ・ダビデなど旧約聖書の登場人物のほか、イエス・キリストも預言者として含まれており、ザラスシュトラ(ゾロアスター)教の善悪二元論などの影響も受けているとされている。

アラブは古代アラビア語で「砂漠に住む民族」を指す言葉だったものが、後に「アラビア語を母語とする人々」を指すようになったと言われており、「アラブ人」は特定の部族や民族を指すものではないが、アラビア語圏の地域で発展したアラブ文化の伝統と歴史を共有しており、地域文化や習慣には多様性があるものの、共通のアイデンティティを持っている。

ヒジュラとメッカ征服

預言者ムハンマドはメッカでイスラム教を布教するが、ユダヤ教やキリスト教と同じモノテイズム(唯一神)を信仰するイスラム教は、多神教が主流だったメッカでは異端と見なされ、ムハンマドとその信徒(ムスリム)は迫害を受けてメッカから北に 320kmほど離れたヤスリブに亡命する。
ムハンマドが移住したヤスリブは「メディナ(マディーナ)」と名付けられ、この 622年に起こったムハンマドの亡命を ヒジュラ といい、イスラム暦(ヒジュラ暦)の起点となる。

ムハンマドはメディナで政治的、宗教的な指導者として活動し、ムスリムのコミュニティを組織化してイスラム共同体「ウンマ」を作り、メディナのムスリムと盟約(メディナ憲章)を結ぶ。
メディア憲章ではメディナのユダヤ教徒は保護されると同時に、ムスリムと協力すること、内部の争いはムハンマドに裁定を委ねることなどが記された。

サウジアラビアで最初の憲章となるメディナ憲章を制定したムハンマドは、メディナでムスリムを増やす一方、アラブ人のムスリムから軍隊を組織し、630年(イスラム暦 8年)メッカに進軍。
メッカを支配していたクライシュ族は戦闘することなく降伏、ムハンマドは無血でのメッカ征服を成し遂げ、メッカの偶像崇拝を排除してカーバ神殿を清めて聖地とし、更に進軍してアラビア半島の部族を改宗させ、イスラーム帝国の礎を築く。

ムハンマドの教えが「イスラム教」と呼ばれるのは後世のことで、8~9世紀に「アッラー(神)に服従し、その意志に従う」という教えの原則を表す語として、アラビア語で帰依や服従を意味する イスラーム(Islam)という言葉が広く使われるようになり、ムスリムの共同体「ウンマ」がイスラームの教えを持つ宗教として認識され、ムスリムの信仰を表す用語として「イスラム教」が使用されるようになる。

イスラーム帝国

ムハンマドはアラビア半島を統一した二年後(西暦632年)に病気(詳細は不明)によってメディナの地で亡くなり、ムハンマドの親友で最も信頼されていた アブー・バクル・アッ=サディーク がイスラム共同体を統治するムハンマドの後継者「カリフ」に就任、アラビア半島のイスラム共同体を統一し、イスラム教を拡大させる。
アブー・バクル・アッ=サディークは就任からわずか2年後(西暦634年)に病気で亡くなり、後継者として ウマル・イブン・アル=ハッターブ を指名。

ウマルの時代にペルシャやシリア、エジプトなどの地域を征服、イスラム帝国は大きく拡大し、イスラムの律法や制度が整備され、イスラム共同体の統治が強化される。

ウマルは在位9年で暗殺され、後継者は選挙によってムハンマドの妻の一人 ルクサーナ の甥にあたる ウスマーン・イブン・アッファーン が選出される。
ウスマーンはムハンマドの教えをまとめた聖典クルアーン(コーラン)を編纂し、一つの統一された形にしてイスラムの教義を確立する一方、キプロス島などを征服してイスラム帝国の版図を拡大するが、西暦656年にウスマーンの統治に不満を抱いた一部のムスリムがメディナで暴動を起こし、ウスマーンは自宅に立て籠もっていたところを襲撃され、暴行を受けて殺害される。

ウスマーンが殺害されてからムハンマドの娘婿だった アリー・イブン・アビー・ターリブ が後継のカリフになるが、イスラム帝国でシリアの知事をしていた ムアーウィヤ(ウマイヤ)・イブン・アビー・スフワーン が正当性に異議を唱え、シリアの統治を拒否し、イスラム帝国初の内戦「第一次フィトナ」が勃発。

第一次フィトナは 657年に起こった「スィッフィーンの戦い」の後で和解が成立するものの、和解に反発してアリー・イブン・アビー・ターリブの政権が分裂してハワーリジュ派が成立。
661年にアリーはハワーリジュ派によって暗殺され、ムアーウィヤ・イブン・アビー・スフワーン が自ら初代カリフとなって 661年にウマイヤ朝を創設し、首都をメディナからシリアのダマスカスに遷都する。

ムハンマドの後を継いでカリフになった アブー・バクル・アッ=サディーク から アリー・イブン・アビー・ターリブ までの四人が ラシードゥン・カリフ(正当なカリフ)と呼ばる。

派閥の形成

  • スンニ派
    ラシードゥン・カリフ時代に基盤が形成したイスラム教最大の宗派で、ラシードゥン・カリフの時代を支持している。
  • シーア派
    ムハンマドの娘婿だったアリーとその子孫をムハンマドの正統な後継者(イマーム)として崇拝し、メシア思想や神秘思想を持っているスンニ派と並ぶ二大宗派で、多くの分派に分かれている。
  • イバード派
    スンニ派とシーア派の伝統的な立場に反対し、独自の教義や信条を持っている比較的小規模の宗派。

750年にウマイヤ朝はアリー・イブン・アビー・ターリブ(第三代カリフ)の子である アッバース・イブン・アリー の反乱によって滅亡し、アッバース・イブン・アリーが初代カリフとなっアッバース朝を建て、首都をダマスカスからバグダード(現イラクの首都)に遷都。

イスラーム帝国はアッパーズ朝の第五代カリフ ハールーン・アッ=ラシード の時代に黄金期を迎えるが、8世紀になると有力な地方政権が独立した王朝を成立するようになり、945年にシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッパーズ朝は形骸化する。

独立しているとは言え、建国された多くの王朝にカリフは存在せず、アミールスルタン など「君主」の称号がアッパーズ朝のカリフから与えられるか、アミールスルタンシャーハンシャー(王)を自称して統治してた。

モンゴル帝国・オスマン帝国

1055年にシーア派でトルコ人の遊牧民が開いた セルジューク朝トゥグリル・ベグ がバグダードを占領してブワイフ朝を倒すが、1258年にモンゴル帝国の第四代皇帝 モンケ・ハーン の勅命を受けた実弟 フレグ の侵攻によりバクダードが陥落し、アッパーズ朝は滅亡。
アッパーズ朝の最後のカリフ ムスタスィム はモンゴル帝国軍に降伏し、フレグに無能と罵倒された挙げ句に長男、次男とともに処刑される。

翌年の 1259年 8月、モンケ・ハーンは中国の合州を攻略中に急死し、モンケの実弟でフレグの次兄 クビライ と 弟の アリクブケ が後継争いを始めたため、フレグは中東地域に留まり、1260年にイラン地域に イルハン朝 を建てる。

フレグはシリアに侵攻するが、アイン・ジャールートの戦いで マムルーク朝 の軍に敗れてシリアから撤退。
マムルーク朝はムスタスィムの叔父 アフマド を庇護し、アフマドは ムスタスィム2世 として カイロ・アッパーズ朝の初代カリフになるが、実権はマムルーク朝のスルタンが握っており、以降「カリフ」は権威としてのみ存在することになる。

マムルーク はイスラムの奴隷兵で構成された軍隊で、アイユーブ朝のスルタン(君主)アル=マリク・アッ=サーリフ 配下のマムルーク軍団は、サーリフの急死後にサーリフの夫人で元奴隷だった シャジャル・アッ=ドゥッル を指導者に立て、1250年に侵攻してきた第7回十字軍を退けると、サーリフの異腹の子 トゥーラーン・シャー を殺害し、シャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンとして マムルーク王朝 を建てる。

イルハン朝は第9代ハン(君主)アブー・サイード の陣没による後継争いで混乱状態に陥り、各地で地方政権が王朝が乱立するが、1335年にイスラム教スンニ派のムスリムでモンゴル出身の軍人 ティムール によって征服され、ティムール朝(ティムール帝国)が成立。
ティムールは更にエジプト・シリアのマムルーク朝やオスマン帝国を破って版図を拡大する。

領土が多様な民族・宗教集団から成り立っていたイルハン朝は宗教に比較的寛容で、フレグは仏教徒だったが、第7代ハン(君主)に即位した ガザン がイスラム教に改宗して国教に定めている。

1402年にアンカラの戦いでオスマン帝国に勝利したティムールだが、アナトリア半島を直接支配せず、オスマン帝国が併合した君侯国(ベイリク)を再興。
領土が縮小したオスマン帝国では兄弟間で帝位争いが起こるが、メフメト1世 が再興したアナトリア半島の君侯国を攻めて宗主権を認めさせる一方で、兄弟との帝位争いにも勝利してオスマン帝国を再興、以降は版図を拡大しながら 1512年に即位した第9第皇帝 セリム1世 の治世に最盛期を迎える。

オスマン帝国はイスラム教スンニ派を国教とするトルコ人のオスマン家が統治した帝国で、1517年のオスマン・マムルーク戦争で セリム1世はマムルーク朝を滅ぼし、マムルーク朝が庇護していたアッバース朝のカリフ ムタワッキル3世 を獄死させ、マムルーク朝が統治していたイスラム教の聖地メッカとメディナを支配下に置いて、スンニ派の最高指導者の地位を得る。

イスラム法 – シャリーア

イスラム世界イスラム圏 と称されるムスリムが中心の地域は、聖典 コーラン とムハンマドの言行や許可、禁止に関する伝承集である ハディース 、特定の問題を協議して法を形成したムスリムの指導者や学者の イジュマー(合意)、コーランやハディースに含まれている原則や精神から法を導き出す クィヤース(推論)を法源とする シャリーア(イスラム法)を規範としており、シャリーアに基づいて統治しているイラン・パキスタン・サウジアラビア・アフガニスタンなどの国は イスラム国家 と呼ばれる。

イスラム主義(イスラム原理主義)

グローバル化した現代において徹底したシャリーアに基づく統治は難しく、完全なイスラム国家は存在しないが、カリフ制度と完全なイスラム国家の復活を提唱する イスラム主義 には様々なイスラム主義運動組織が存在する。

イスラム主義運動組織の過激派には アルカーイダタリバンイスラム聖戦ハマスヒズボラ などがあり、1992年にはアフガニスタン共和国が崩壊し、タリバンが統治する アフガニスタン・イスラム国 が成立。
2001年に多国籍軍がタリバン政権を転覆し、アフガニスタン・イスラム共和国 が建国されるが、2021年 5月にアメリカ軍のアフガニスタン撤退に伴い、タリバンが再びアフガニスタン全土を掌握した。

イスラム主義に対して 世俗主義 は宗教機関と政府は別に存在するべきだとし、異なる宗教や信念を尊重し、信仰の自由を保障しているが、イスラム教を国教にしている国は多少なりともイスラム法の影響を受け、国によってイスラム法と世俗主義のバランスは異なっており、世俗主義とイスラム原理主義の対立は内戦の原因になっている。