社会・時事

ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争) – パレスチナ問題(6)

消耗戦争

六日戦争で大敗を喫した後、シナイ半島がイスラエルに占領されたエジプトのナセル大統領は占領地の解放を掲げ、1967年6月の休戦後まもなく、イスラエル軍が構築したスエズ運河東岸の拠点群バーレブ・ラインに対し、シビエとからの支援を受けて、重砲や MiG戦闘機を使用して散発的な攻撃を開始。
イスラエル軍も空襲や空爆で応戦し、双方に被害を出しながら中東は緊迫した状態が継続する。

アラブ連盟は 1967年8月29日にスーダンのハルツームでアラブ連盟サミット(アラブ首脳会議)を開催し、「イスラエルに対する継続的な闘争」を決議。

この決議には「3つのノー(Three Nos)」として知られる「イスラエルと講和せず」「イスラエルを承認せず」「イスラエルと交渉せず」の条項が含まれている。

エイラート事件(エジプトの小型ミサイル艇の対艦ミサイルでイスラエルの駆逐艦エイラートが撃沈)や カラメの戦い(ゲリラ戦を続けるPLO(ファタハ)に対し、イスラエル軍がヨルダンに侵攻して PLOのキャンプ地を攻撃)などを経て、手応えを感じたエジプトのナセル大統領は 1969年3月8日に宣戦布告し、バーレブ・ラインに大規模な攻撃を実行、消耗戦争 が開戦する。

カフカス作戦

エジプトはソビエトから武器弾薬や経済的な支援を受けていたが、ソビエトは 1969年7月「カフカス作戦」としてパイロットや軍事顧問を派遣して直接介入。
1970年1月にはナセル大統領が破壊された防空システムを強化するため最新の地対空ミサイル(SAM)の配備を要請し、ソビエトは SAMと SAMを守備する防空部隊を増員。
エジプト・ソビエトの連合軍はイスラエル軍に善戦し、1970年8月には防空網をスエズ運河に近づけることに成功する。

3年に渡る紛争でエジプトとイスラエル両軍は互いに大きな損害を被り、米国が仲介役となって働きかけたことで 1970年8月7日にエジプト・ヨルダンとイスラエルの停戦合意が成立、エジプト・イスラエル軍は停戦ラインに退却して消耗戦争は終息する。

エジプトのナセル大統領は停戦合意が一ヶ月半後の 9月28日に糖尿病による合併症で心臓発作を起こして急死、アラブのカリスマは52年の生涯を閉じる。

黒い九月(ヨルダン内戦)

六日戦争でヨルダン川西岸地区がイスラエルに占領されてから、ヤセル・アラファト が 1957年に設立した武装勢力 ファタハ はヨルダンの国境付近にあるカラメに拠点を移し、イスラエルへの攻撃を強化。
1967年3月、イスラエル軍はファタハの拠点破壊とヤセル・アラファトを拘束するためヨルダンに侵攻してカラメを攻撃、ヨルダン軍は応戦し、ファタハの戦闘員はゲリラ戦を展開する(カラメの戦い)。

イスラエル軍はカラメキャンプの破壊にが成功するが大きな損害を受けて撤退、イスラエル軍に善戦したことでアラブ諸国の称賛を受けたファタハは、1967年5月にナセル大統領の仲介で PLO(パレスチナ解放機構)に加盟。
1968年7月にはファタハの加盟に伴う組織の再編成で 104議席を60議席に削減し、PLO内で最大勢力のファタハに 33議席が割り当てられ、1969年2月、第2代 PLO議長の ヤヒア・ハマウダ が健康上の理由から辞任するとアラファトが議長に選出される。

カラメの戦いではファタハとイスラエル軍の両陣営とも勝利宣言をしているが、常勝のイスラエル軍にゲリラ戦で一泡吹かせた ファタハ はアラブ・パレスチナ人の絶大な支持を集め、ファタハへの参加希望者が続出、イラクとシリアは数千人のゲリラに訓練プログラムを提供する。

カラメのキャンプ地を失ったファタハは拠点を内陸部に移し、ヨルダンのパレスチナ難民キャンプにはファタハに協力するためシリアやレバノンから武装組織の戦闘員が集まり、アンマンの難民キャンプでは PLOが地方政府を設立して自治を確立し「独立共和国」と呼ばれるようになるが、規律が脆弱なため集まった武装組織メンバーは不法・違法行為を繰り返し、 ヨルダンの治安当局との摩擦が生じる中、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)やパレスチナ解放民主戦線(DFLP)などの組織がヨルダン王国のハーシム君主制(ムハンマドの曽祖父ハーシムの子孫を王家とする立憲君主制)の正統性を問い、革命政権に置き換えるべく打倒を主張するようになる。

ヨルダンのフセイン国王は外交によって沈静化を図るが、PLOのアラファト議長と協定を締結しても、PFLPや DFLPが決議に従わないため事態は混迷し、消耗戦争の停戦合意成立後の 1970年8月末にヨルダン軍とパレスチナ武装勢力の間で交戦が発生する。

ドーソンズ・フィールドのハイジャック事件

パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は1970年9月6日に 4機、9月9日に 1機の旅客機をハイジャックし、PFLPが実質的に統治していたヨルダンのザルカ近郊にある第二次世界大戦時にイギリス空軍が使用していた飛行場「ドーソンズ・フィールド」 に向かうよう指示。

ハイジャックされた機体

  • トランスワールド航空741便 フランクフルト発 ボーイング707型機(乗客144名)
  • スイス航空100便 チューリッヒ発 ダグラスDC-8型機(乗客145名)
  • パンアメリカン航空93便 アムステルダム発 ボーイング747型機(乗客136名)
  • エル・アル航空219便 テルアビブ発 ボーイング707型機(乗客138名)
  • 英国海外航空775便 バーレーン発 ヴィッカースVC-10型機(乗客 105名)

ハイジャックされた 4機のうちエル・アル航空219便は便乗していたスカイマーシャル(ハイジャック犯などに対応する武装警察)がハイジャック犯の一人を射殺して制圧。
パンアメリカン航空93便は大型機のためドーソンズ・フィールドへの着陸ができないとして、目的地をカイロ空港に変更し、計画が失敗したハイジャック犯はカイロ空港で乗客乗員を解放後に機体を爆破して投降する。

ドーソンズ・フィールドに強制着陸したトランスワールド航空741便とスイス航空100便では、9月7日にイスラエル人やユダヤ系以外の乗客乗員 125名が解放されるが、9月9日に英国海外航空775便がハイジャックされてドーソン・フィールドに強制着陸させられる。
9月11日、PFLPは女性と子供を中心とした一部の人質を解放する一方で、イスラエルや西欧諸国に捕らえられている PFLPメンバーを含む過激派 7人の解放を要求し、72時間以内に要求が聞き入られない場合は人質もろとも航空機を爆破すると通告するが、拿捕している旅客機が奪還されるのを恐れ、人質を移動させた上で期限前の 9月12日、国際報道陣の前で旅客機をすべて爆破。

関係各国は協議して PFLPの要求を受け入れ、9月30日にエル・アル航空のハイジャックに失敗して拘束されていた ライラ・カリド を含む 7人を釈放し、人質も無事に全員解放される。

事態を重く見たヨルダンのフセイン国王は 1970年9月16日に軍事政権を発足し、戒厳令を布告。
翌17日からアンマンの PLOが拠点としてる難民キャンプを攻撃、PLOの武装組織もヨルダン各地で蜂起し、ヨルダン軍と PLOの激しい戦闘が繰り広げられる。

アラファト議長(左)と握手するフセイン国王(右)、中央はナセル大統領

9月27日、ナセル大統領の主導によってカイロでアラブ連盟緊急サミットが開催され、ナセル大統領の仲介によってフセイン国王とアラファト議長が停戦合意に署名するが、停戦合意後もヨルダンは PFLPや DFLPとの間で交戦し、最終的にパレスチナ武装組織を降伏に追い込み、1971年7月17日にフセイン国王が主権の完全回復を宣言して「黒い九月」と呼ばれるヨルダン内戦は終結する。

停戦に尽力したナセル大統領は停戦合意の翌日に亡くなり、葬儀に参列したフセイン国王やアラファト議長はその死を痛んで号泣する。

テロ事件

1971年11月28日、黒い九月 を名乗る武装組織がヨルダンから PLOを追放した報復として、ヨルダンの ワフィ・タル 首相を暗殺。
1972年5月8日、黒い九月はベルギーの国営航空会社サナベが運行するブリュッセル発のサナベ572便をハイジャックし、到着地のテルアビブでイスラエルに収監されているパレスチナ過激派の捕虜の釈放を要求するが、イスラエル軍の特殊部隊 サイェレット・マトカル によって制圧される。

1972年9月5日、黒い九月はミュンヘンオリンピックの選手村にあったイスラエルの宿舎を襲撃し、2人を殺害 9人を人質に取り、イスラエルに収監されているパレスチナ人や日本赤軍、ドイツ赤軍のメンバーなど234人の釈放を要求するが、イスラエルが要求を拒否。
交渉の末、武装集団は飛行機でエジプトに向かうことが決まり、ヘリコプターで空軍基地に移動したところを、警察が狙撃するが失敗し、結果として人質9人が殺害、武装メンバー5人が射殺、3人が逮捕される。(ミュンヘンオリンピック事件)

黒い九月(Black September Organization)は PLOの加盟組織ではないが、ファタハ創設者一人である アブ・ダウド  がリーダーを務めており、黒い九月のメンバーで「赤い王子」として人気のあった アリー・ハサン・サラーマ も PLOとアラファト議長の個人警護を担当する親衛隊「フォース17」の創設者であり、黒い九月のメンバーも PLOやファタハとの関係をほのめかす発言をしているが、当然ながら PLOのアラファト議長は関与を否定しており、黒い九月の活動が PLOの方針だったのか、一部の過激派が起こしたものかは分かっていない。

黒い九月は欧米諸国のイスラエル大使館やユダヤ人企業、ユダヤ人団体などに郵便爆弾を送付したほか、空港の襲撃事件などを起こすが、ミュンヘンオリンピック事件発生後にイスラエルの諜報機関モサドは「神の怒り作戦」としてアリー・ハサン・サラーマを始めとするミュンヘンオリンピック事件の「関係者とされる人物」を暗殺する。

1988年までに少なくとも 16人が殺害されているが、暗殺リストの正当性や正確性に疑問があり、誤った身元認定や誤爆が発生によって無関係な人々が被害を受けているほか、作戦事態が暗殺という国際法や人権に反する非合法な手段のため批判も多い。

テロの定義

テロリズム(テロ)は「暴力や脅迫によって政治的な目的を達成する行為」と一般的に定義されているが、学術的にも国際法的にも定義に関する合意がなく、テロ組織やテロ国家の認定は各国が独自の評価によって行っており、自国の理念や方針と異なる勢力をテロ組織・テロ国家に認定する傾向がある。

英国の BBCは報道で「テロリスト」という語句を使用しない方針をとっており、理由として「誰かをテロリストと呼ぶことは、どちらかの肩を持つことになる」と説明しており、同じ事件でも立場の違いで解釈や感覚はまったく異なってくるため、公平性・客観性・正確性・信頼性を保つためにも必要だとしている。

BBCとはガイドラインが異なるが、NHKも報道ではテロリストという表現は使用していない。

ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)

急死したナセル大統領の後継者として政権を引き継いだエジプトの アンワル・サダト 大統領は、ソビエトとの緊密な関係を緩和しつつ米国との関係改善を模索し、1971年9月には新憲法を制定するなどの変革を行い、イスラエルにはシナイ半島からの完全撤退を条件に、独立国家としてのイスラエルの権利を認めるとした和平案を提示するが、イスラエルの ゴルダ・メイア 首相が提案を拒否。

サダト大統領は米国に仲介を頼むが、イスラエルとの関係を重視した米国はイスラエルの安全保障を優先し、敗戦続きのエジプトが交渉するのは難しいとしてイスラエルの立場を支持。
ニクソンショックの影響で国内経済が低迷し、国民の不満が高まっていることあり、対等の立場で交渉する手段としてサダト大統領はイスラエルとの戦争を決断する。

ソビエトからの圧力に不満があったサダト大統領は米国との関係改善も考慮して 1972年8月にソビエトの軍事顧問を追放、ソビエトはサダト大統領の決定に反発してエジプトとソビエトの関係は冷却化するが、一方でエジプトは武器の調達をソビエトに依存しており、ソビエトも中東で米国の影響力が大きくなる懸念があるなど、相互に利益を見出して複雑な関係を維持し、1972年末から戦争に向けてソビエトから武器を購入して軍備の増強に取り組む。

シリアでは 1970年11月にバアス党内で対立が起こり、国防省だった ハーフェズ・アル=アサド がクーデターを起こして全権を掌握、1971年2月に国民投票によって大統領に就任。
サダト大統領は 1973年1月にアサド大統領とカイロで会談して「エジプト・シリア防衛協定」を締結し、4月にはリビアの最高指導者 ムアンマル・アル=カッザーフィー (カダフィ大佐) と「エジプト・リビア連合」形成してイスラエルへの対抗姿勢を強める。
1973年2月、サダト大統領はシナイ半島からの撤退を含む最終和平を申し入れるが、イスラエルはこれも拒否。

1973年5月18日から 6月1日までエジプトとシリアは共同で大規模な軍事演習を行った他、エジプト軍単独で 9月1日から1週間、9月25日から10日間の軍事演習を実行し、演習のたびにイスラエルは兵士の動員と解除を繰り返すことになる。

イスラエルはエジプトとシリアが侵攻してくる警告を受け取りながらも、戦争する能力がないという油断があり、予備役の召集令が発令されたのは開戦の数時間前だった。

エジプトとシリアは 1973年10月6日、イスラエルで最も神聖な日であるユダヤ教の贖罪の日(ヨム・キプール)にイスラエルを奇襲を仕掛け、エジプトは「バドル作戦」を実行し、MiG-17、MiG-21、Su-7、Tu-16など 200機の航空機で空軍基地や軍事施設を空爆、スエズ運河を渡ってイスラエルに侵攻したエジプト歩兵師団5個師団はバーレブ・ラインを占領し、シリア軍も 100機の航空機いよる空爆の後に歩兵師団が進軍してゴラン高原を占領。

エジプト・イスラエルの奇襲は成功するが、10月14日にイスラエル軍はバーレブ・ラインのエジプト軍を撃破(シナイの戦い)してスエズ運河を渡ってエジプト領に進軍、ゴラン高原でもシリア軍を撃退したイスラエル軍がシリア領に侵攻。
サウジアラビア、ヨルダン、イラク、リビアなどのアラブ諸国はエジプトやシリアに援軍を派遣する一方で、10月17日にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油の生産削減を決定、更に米国のニクソン大統領がイスラエルへの武器供給と 22億ドルの支援を承認したことに反発し、10月20日以降はイスラエルを支援している米国・オランダなどを対象に禁輸措措置を宣言して第一次オイルショックを引き起こす。

米ソは中東での戦争拡大を防ぐ目的で介入し、1973年10月22日に国連安全保障理事会は停戦決議 338を採択するが、停戦が守られずに小競り合いが続いたため、24日には米ソが共同声明を発表して停戦の即時実施と国連の監視団派遣を要請。
25日にエジプトとイスラエル、26日にシリアとイスラエルが停戦協定に合意してヨム・キプール戦争は終結。

米ソの介入もあって1974年1月18日にイスラエルとエジプトの間の軍事離脱が調印され、5月31日にはイスラエルとシリアの間の軍事離脱も調印される。

キャンプ・デービッド合意

エジプトはヨム・キプール戦争でもシナイ半島を奪還できなかったが、イスラエルに大きなダメージを与えたことで「対等な立場」で交渉が可能になり、1975年9月4日にエジプトとイスラエル間の領土紛争を平和的に解決することを目的とした「シナイ暫定協定」が結ばれる。

ベギン首相(左)カーター大統領(中央)サダト大統領(右)

1977年11月、米国の ジミー・カーター 大統領はシナイ半島の返還に難色を示すイスラエルの メナヘム・ベギン 首相とエジプトの アンワル・サダト 大統領を米国のキャンプ・デービッド(大統領の保養地)に招き、カーター大統領の仲介でサダト大統領とベギン首相は「エジプト・イスラエル平和条約」の下地となる合意文書に署名。

この政治協定は キャンプ・デービッド合意 と呼ばれ、エジプト・イスラエル平和条約 の下地になったほか、ガザ地区とヨルダン川西岸地区でのパレスチナ人の自治当局設立についても言及しているが、パレスチナ人の代表機関である PLOが参加しておらず、パレスチナ人の帰還、自決権、国家の独立と主権が含まれていなため国連は協定を拒否、キャンプデービッド合意のうちパレスチナの将来に関する部分と同様のものはすべて無効と宣言する。

1979年3月26日、キャンプ・デービッド合意に基づき「中東戦争の休戦」「シナイ半島からのイスラエル軍と入植者の段階的撤退」「イスラエル船舶のスエズ運河自由航行」「ティラン海峡を国際水路として認める」ことなどを規定した エジプト・イスラエル平和条約 が締結し、サダト大統領は外交でシナイ半島の返還に成功するが、イスラエルを国家として承認したためアラブ諸国から「裏切り」と見做され、エジプトはアラブ連盟の資格を停止、シリアの ハーフェズ・アル=アサド  大統領はエジプトとの関係を断絶。
国内でもイスラム主義の過激派(ジハード主義)組織などによる反乱が頻発し、サダト大統領は 1981年10月6日の軍事パレードで過激派組織 アル・ジハードによって暗殺される。

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