フサイン=マクマホン協定
1914年6月28日に起きたサラエヴォ事件を切欠に始まった第一次世界大戦は、イギリス・フランス・ロシアなどの連合国とドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマン帝国などの中央同盟国に分かれて対峙。
当時のオスマン帝国は産業や軍備の近代化に乏しく、経済の停滞や不況が続いて軍備も脆弱で、多民族・多宗教のため民族・宗教間の対立が深刻化し、クーデターが続くなど政情も安定しないなど亡国の兆しがあり、サラエボ事件の 2年前にはセルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシャの4カ国がバルカン同盟を結成してオスマン帝国に宣戦布告、オスマン帝国から領土を奪取している。
イギリスはオスマン帝国でメッカの太守(シャリーフ)を務めるスンニ派のアラブ人 フサイン・イブン・アリー に接触し、支援と独立を約束してと反乱を指導。
フサイン・イブン・アリーは独立後の領土の範囲を書簡で伝え、イギリスの外交官 ヘンリー・マクマホン はフサインの提案に対し、アレッポ・ダマスカス・ホムス・ハマーの西にある「シリアの一部」やトルコのメルシン・アダナは純粋なアラブ人の土地とは言えないとするが、その他のフサイン・イブン・アリーが主張する「アラブの土地」に対しては、英国の同盟国であるフランスの利益を損なうことなく自由に行動できる国境内での独立をイギリス政府の名において誓約する旨の書簡を送る。
フサイン・イブン・アリー はラシードゥン・カリフ(正当なカリフ)だったアリー・イブン・アビー・ターリブ の直系で、オスマン帝国の支配下でイスラム教の聖地メッカやメディナのある紅海に面した海岸地域「ヒジャーズ」を半自治の形で収めていた。
フサインはメルシン・アダナの除外を了承するが、シリア地域はアラブ人の土地だとして除外を拒否し、マクホマンはシリアの土地がフランスの利益に関わっているため検討が必要と返信するもフサインは修正を拒絶し、マクホマンが提案を飲む形で協定が成立。
1915年7月から 1916年3月の間に行われた一連の書簡(10通の手紙)でのやりとりは フサイン=マクマホン協定 と呼ばれ、フサイン・イブン・アリーはイギリスの支援を受けて 1916年6月にオスマン帝国に対して反乱(アラブ反乱)を起こし、統治していたヒジャーズ地域を ヒジャーズ王国 として独立を宣言する。
アラブ反乱は「アラビアのロレンス」で有名な史実で、ロレンス大佐とアラブ反乱軍はオスマン帝国軍をヒジャーズに釘付けにし、アラビア半島のほかパレスチナ・トランスヨルダン・レバノン・シリア南部などを占領するなど大きな戦果を上げる。
フサイン=マクマホン協定 の書簡はアラビア語で書かれており、境界としていた アラブの土地 という曖昧な表現により、フサイン・イブン・アリーとイギリスの間に齟齬が生じることになる。
サイクス・ピコ協定
アラブ反乱が起こる直前の 1916年5月、イギリス・フランス・ロシア帝国の三カ国でオスマン帝国の領土分割を取り決めた秘密協定が締結される。
この密約はイギリスの外交官 マーク・サイクス とフランスの外交官 フランソワ・ジョルジュ=ピコ が原案を作成したことから サイクス・ピコ協定 と呼ばれ、協定ではシリアをフランスの勢力圏、イラクとペルシャ湾に面したアラビア半島の一部をイギリス勢力圏、パレスチナは国際管轄領にすることが記されていたが、終戦後 1920年4月の サン=レモ会議 で国際連盟はパレスチナの委任統治をイギリスに託し、1923年の ローザンヌ条約 で正式に分割され、パレスチナ・イラク・ヨルダンがイギリスの勢力圏になる。
かつてのイスラーム帝国の復活を目論んでいたフサイン・イブン・アリーにとって、サイクス・ピコ協定はフサイン=マクマホン協定の反故に等しく、結果的にシャリーフ時代のヒジャブ地域を独立国家として認められたに過ぎなかった。
「フサイン=マクマホン協定」と「サイクス・ピコ協定」の矛盾については、アラビア語と英語での「州」や「地区」、書簡の「フランスの利益を損なうことなく自由に行動できる国境内」という一文が翻訳時に解釈が異なった可能性が指摘されているほか、当初はパレスチナを「アラブ人の土地」として認識していたイギリスが、1920年にはパレスチナがイスラム教、キリスト教、ユダヤ教など、異なる宗教が混在する地域で、純粋なアラブ人の土地とは言えないという解釈に変わっているなどが原因になっている。
バルフォア宣言
ユダヤ人でフランス軍情報部の陸軍大尉 アルフレッド・ドレフュス の冤罪事件(ドレフュス事件)を切欠に シオニズム(ユダヤ人国家の建設と維持の主張)が活発になる中、1917年11月2日にイギリスの外相 アーサー・バルフォア は イギリスのユダヤ人コミュニティの指導者だった ウォルター・ロスチャイルド 卿宛に手紙を送り、手紙に含まれていた「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の努力を払うものとする。ただし、これは、パレスチナに在住する非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位を、害するものではないことが明白に了解されるものとする。」という宣言文が 11月9日に報道機関へ発表された(バルフォア宣言)。
当時ヨーロッパでは経済的な成功を収めたユダヤ人に対する妬み、社会変動による不安や不満、ナショナリズムなど複数の要因によって反ユダヤ主義が高まっていたため、シオニストは中東・地中海地域に影響力を持っていたイギリスに目を付け、迫害を受ける中で培われた資金力や交渉力、世界に広がるディアスポラの情報力などを駆使したロビー活動と外交努力を行い、「バルフォア宣言」という形でユダヤ人国家の建設への支持を獲得する。
パレスチナ
バル・コクバの反乱 によって西暦135年以降、ユダヤ人はパレスチナから排斥され、イスラーム帝国が台頭してからは長年に渡ってイスラーム帝国とイスラーム圏の支配下にあり、当時のパレスチナは人口の 9割をイスラム教徒とキリスト教徒で占めていた。
バルフォア宣言は現地の状況や先住民の希望を無視したもので、イギリスの横暴にパレスチナ住民は強く反発する。
バルフォア宣言に対してアラブ諸国はフサイン=マクマホン協定に違反すると見做し、パレスチナに独立国家の建設を期待していたユダヤ人はパレスチナを国際管轄領にするというサイクス・ピコ協定の内容に反発。
イギリスは 三枚舌外交 として避難される。
フサイン=マクマホン協定は文書のみでのやり取りであったり、翻訳時の解釈違いなど、イスラム世界の常識の中で生きてきたフサイン・イブン・アリーの脇の甘さが目立つ一方で、イギリスの外相を動かしたバルフォア宣言は差別と偏見の中を生き抜いてきたユダヤ人コミュニティの影響力と狡猾さを見て取れる。
イギリスの委任統治
第一次世界大戦の終戦後、パレスチナはイギリスの委任統治下に入るが、1920年3月にパレスチナのガラリア地方にあるテル・ハイでアラブシーア派の民兵とユダヤ人の民兵が衝突(テルハイの戦い)、4月にはアラブ人がエルサレムで暴動を起こし(ネビ・ムーサ暴動)、ユダヤ人とユダヤ人の入植地を襲撃。
この事件を切欠にユダヤ人は自衛を目的として軍事組織で、後のイスラエル防衛軍となる ハガナー を創設する。
暴動はムスリムの祝日「ネビ・ムーサ(モーゼ際)」に参加していたアラブ人が「ユダヤ人がエルサレムでの祭事を妨害している」という噂を信じて抗議活動を始めたのが発端で、バルフォア宣言やユダヤ人の入植への不満が爆発して暴動に発展し、イギリス軍の介入により鎮圧されるが、アラブ人の暴徒に対してイギリス軍は銃撃を行い、ユダヤ人・アラブ人ともに数百人の死傷者がでた。
パレスチナは 1920年7月に軍政から民政に切り替わり、シオニストの ハーバート・サミュエル が高等弁務官に任命され、英国政府の代表としてパレスチナの行政を担当するが、ユダヤ人の移住と入植地の拡大を推進するサミュエルは初期段階でアラブ人とユダヤ人を受け入れる統一政治構造の構築に失敗、パレスチナはアラブ人とユダヤ人が対立する不安定な状況に陥る。
シオニストのサミュエルが派遣されたことでも分かるようにイギリス政府はシオニストに忖度しており、サミュエルの行政も公平性を謳いながらも、ユダヤ人の移民と土地の購入を阻止する権限をアラブ人に与えないなど、ユダヤ人に有利な行政を行う。
アラブ人とユダヤ人の対立が激化する中、イギリスの植民地大臣だった ウィンストン・チャーチル は1922年の チャーチル白書 で、バルフォア宣言にパレスチナをユダヤ人国家に変える意図がないことやユダヤ人の移民数には制限があること、アラブ人の権利の尊重、ユダヤ人とアラブ人との平和的な共存を強調する一方で、パレスチナ内にユダヤ人の自治政府設立の支援を約束し、ユダヤ人入植地の発展を奨励する。
チャーチル白書はアラブ人を不満を緩和する火消しのような内容だったが、ユダヤ人の自治政府設立を認めたことでアラブ人から支持されず、入植制限と独立国家の設立を否定されたユダヤ人からも支持されなかった。
ユダヤ人のパレスチナ入植
ユダヤ人のパレスチナ移住は 19世紀末から広まったシオニズム運動から本格化しており、オスマン帝国の統治下にあったパレスチナ地域においてユダヤ人の移住と入植が増加。
世界シオニスト機構 はパレスチナに ユダヤ人入植協会 などの入植団体や機関の設立を支援し、これらの団体や機関が入植地の建設計画を作成、資金調達、土地の取得、労働力の確保などを担当して新しい入植地を設立して、テルアビブ、ハイファ、ヘダラなどの港湾都市を中心に発展していく。
シオニズム運動前のパレスチナ地域ではイスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒が共存しており、宗教間での対立などはあるものの比較的安定した地域だったが、入植が始まってから安定が揺れ動くようになる。
入植地の拡大
入植地は現地のアラブ人から土地を買収して行われたが、パレスチナでは土地の所有権に関する法的な整備が不十分だったため、ユダヤ人が土地を購入すると既存のアラブ住民や地主との間で土地の所有権を巡る紛争が生じることも多く、農地や水源などの資源が競合してアラブ人とユダヤ人が対立する要因となり、アラブ人は入植地の拡大を脅威と捉えるようになる。
日本でも北海道などで 外国人による土地の買収 が問題になっており、当時のアラブ人と同じような衝突が発生する危険がある。
キブツ(共同体)
第一次世界大戦前のユダヤ人移民は入植地で農園を所有し、アラブ人を小作人として雇用していたが、大戦後からユダヤ人同士の集団農場(キブツ)が主流となってアラブ人を排除してユダヤ人を優先する傾向(ヘブライ人の労働政策)が強まり、各地で独立性の高いユダヤ人共同体(イシューヴ)が誕生する。
キブツは共産主義・社会主義的な理念に基づく農業共同体で、共同で働き、財産や利益、育児や教育を共有することによって共同体の発展を図り、農業だけでなく、産業やサービス分野にも進出して多様な経済活動を展開するようになる。
パレスチナに先住するアラブ人の3分の2以上は フェラヒーン と呼ばれる土地を持たない小作農で、当時アラブ人が所有する農地(およそ100平方km)では59万人の農業人口を支えていたのに対し、ユダヤ人の農地では 5万人程度だった。