レバノン内戦
黒い九月(ヨルダン内戦)で拠点を失った PLO(パレスチナ解放機構)は、パレスチナ難民キャンプのあるレバノン南部に拠点を移して立て直しを図り、レバノンのイスラム主義組織を吸収して政治・軍事的な独立した自治政府を確立する。
1969年11月2日、レバノンは国内にあるパレスチナ難民キャンプをレバノン軍の管轄から外して PLOの管理下に置くことを許可する「カイロ協定」に合意しており、PLO勢力拡大を懸念しながらも自治政府を黙認。
レバノンではキリスト教とイスラム教が共存しており、レバノン政府は宗派による権力有分制度(国家公認の宗派間で政治権力を配分)を採用していたが、PLOが自治政府を確立するとキリスト教とイスラム教のバランスが崩れて対立するようになる。
PLOはキリスト教徒の左派と連携して右派勢力と対立する一方で、イスラエルに対してゲリラ攻撃を繰り返し、ミュンヘンオリンピック事件の際にはイスラエル軍がレバノン南部に侵攻して PLOの基地を攻撃するなど、レバノンにとって PLOが大きな火種となる中、1975年4月13日に PLOの民兵が乗った車両が教会の前に差し掛かった際、キリスト教マロン派の極右政党ファランヘ党の民兵組織 KATAEB規制部隊(KRF)が迂回するよう指示するが、PLOの民兵が拒否して乱闘になり、誤射によって PLOの運転手が死亡して乱闘は終わるが、1時間後に PLOの武装組織 PFLP(パレスチナ解放人民戦線)が 2台の車両で教会に近づいて発砲、教会関係者 4名を殺害する。
KRFは報復としてパレスチナのキャンプで ALF(パレスチナ・アラブ解放戦線)のメンバーを乗せたバスを待ち伏せして襲撃し、通行人を含む 27人を殺害する(バス虐殺事件)。
ムスリム(イスラム教徒)と PLOは同盟を結んで レバノン国民運動(LNM)を結成、レバノンの最大勢力であるファランヘ党と激突し、3日間で 300人以上が死亡する内乱状態に陥る。
レバノン当局は混乱を抑えきれず、この事件を切欠に燻っていた宗派間の対立が顕在化し、各宗派の民兵組織や PLOの武装組織の武力衝突が勃発。
抗争はファランヘ党を中心とする右派とムスリムを中心とする左派という構図になり、対立する宗派の市民の誘拐や拷問、虐殺が行われ、抑制できない状態に職務放棄する警官が続出したため犯罪も増加、民兵組織が犯罪集団と結託するなど首都ベイルートは文字通り無法地帯となり、右派勢力の多い東ベイルートと左派パレスチナ難民の多い西ベイルートに分裂する。
レバノン内戦はシリア軍やイスラエル軍の侵攻で泥沼化。
1982年6月、PLOの根絶を目的にしたイスラエル軍はレバノンに侵攻してベイルートを包囲、8月に米国とフランスの仲介で PLOとイスラエルは停戦合意に署名し、PLOの ヤセル・アラファト 議長は数千人のメンバーを率いてエジプトに退避し、チュニジアのブルギーバ大統領の招きでチュニスに PLOの本部を置く。
1982年8月23日、親イスラエル派でキリスト教マロン派の指導者 バシル・ジェマイエル がイスラエルの支援を受けて大統領に選出されるが、就任直前の 9月14日にシリアの政党「シリア社会民族党(SSNP)」のメンバーによって暗殺される。
ファランヘ党とイスラエル軍は暗殺がレバノンに残っている PLOメンバーの仕業だとして、停戦合意に違反して 1982年9月16日にサブラー・シャティーラのパレスチナ難民キャンプを襲撃、2日間でパレスチナの民間人が 460から3500人が虐殺(国連がジェノサイドに認定)された「サブラー・シャティーラ事件」が発生する。
イスラム改革
イランでは皇帝 パフレヴィー2世 が推進した近代化政策「白色革命」によって貧富の差が拡大、民衆の支持を集めていた イスラム教シーア派イマーム の家系(ムハンマドの娘婿アリーの直系)の生まれである ルーホッラー・ホメイニー は白色革命を批判して国外追放され、反政府運動のシンボルとなる。
ホメイニーは亡命先(当初はイラクで生活するが、サダム・フセイン に追放され1978年10月フランスに移動)から革命派の武装組織 イスラム革命防衛隊 の創設を指示、ホメイニーの信奉者や革命有志、民兵組織のほかイラン軍の一部が革命防衛隊に参加し、政府軍や治安維持部隊に対抗する武力を備える。
革命は宗教的・政治的な理念に基づく平和的な抵抗と政治的変革を軸にしており、デモやストライキ、抗議運動が主体だったが、革命の進行に伴い暴動や激しい武力衝突が発生して多くの民間人が犠牲になる中、事態を制御できなくなったパフレヴィー2世は 1979年1月16日にイランへ亡命。
1979年2月1日にホメイニーは 14年間の亡命生活を終えてイランに帰国、イランはイスラム共和国となり、宗教的指導者であるホメイニーが最高指導者(ラフバル)としてシーア派イスラム法に基づく社会制度を導入する。
イラン・イラク戦争
アラブ帝国の再興を目指していたイラクの サダム・フセイン 大統領は、イスラム改革によって世俗主義を批判するシーア派のイスラム主義国家になったイランを脅威に感じ、変革後でまだ混乱している情勢を好機と捉えて、長年イラン・イラクの間で問題になっていた国境地帯を流れるシャットゥルアラブ川の使用権を口実にして 1980年9月22日 イランに侵攻。
各国の思惑が複雑に交錯し、アラブ諸国の関係性に変化をもたらしながら 1988年8月20日に停戦合意されるまで 8年に渡って泥沼の戦闘が繰り広げられる。
エルサレム法
イスラエルは 1980年7月の国会でにエルサレムを首都として承認する「エルサレム法」を可決し、六日戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸地区にある東エルサレムを含むエルサレム全域をイスラエルの首都と宣言。
国連安全保障理事会はエルサレム法が国際法違反であるとして非難し、決議478でエルサレム法を無効とした(米国は決議を棄権)が、イスラエルは決議を拒否して警察署や裁判所、市議会などの行政機関を設置して入植を拡大する。
ヨルダン川西岸地区にある東エルサレムにはムスリム(イスラム教徒)以外の立ち入りが禁止されているイスラム教の聖地 アル=アクサモスクがあり、パレスチナは東エルサレムを独立後の首都と見做していた。
決議478を受けてエルサレムに大使館を設置していた各国はテルアビブなどに移転するが、2018年5月に米国のトランプ大統領が大使館をエルサレムに移転し、東エルサレムをイスラエルの首都として承認する。
エルサレム法が可決されるとイスラエルの占領下にあるヨルダン川西岸地区ではパレスチナ人による大規模な抗議行動が発生し、イスラエル軍や入植者と衝突して多数の犠牲者を出しながら、イスラエルへの反感は高まり、「イスラエルの駆逐」を掲げるイスラム主義組織が支持を集めるようになる。
第一次インティファーダ
1987年12月4日にイスラエルの統治下にあるガザ地区で、イスラエル人のセールマンが刺殺される事件があり、2日後の 12月6日、イスラエル軍の戦車運搬車がパレスチナ人の車に衝突して 4人のパレスチナ人が死亡する。
パレスチナ人は衝突が刺殺事件に反応して意図的に行われたものだとしてイスラエルを非難し、占領地域で続くイスラエルの弾圧で蓄積された不満が爆発、ヨルダン川西岸地区に広がり、大規模な抗議運動 インティファーダ(アラビア語で「振り落とす」の意)に発展する。
インティファーダは基本的に非武装の抗議や不服従で行われたが、投石や火炎瓶でイスラエル軍に抵抗する10代を中心とした若者や子供に対して、イスラエル国防相の イツハク・ラビン は「石を投げる者の手足を折れ」と命令し、イスラエル軍は中心部が鋼鉄のゴム弾や催涙弾のほか実弾も使用して容赦なく攻撃、5年間で パレスチナ人は2000人以上、イスラエル人は200人以上が犠牲になり、負傷者は数万人に上る。
イスラエルはインティファーダを抑え込むためパレスチナ地区を封鎖、パレスチナの経済は麻痺して貧困が加速する。
エジプトのイスラム主義組織「ムスリム同胞団」のガザ支部で慈善活動を行っていた アフマド・ヤースィーン は、イスラム主義組織 ハマス を結成し、パレスチナの土地奪還と人権保護を目的に活動を始める。
パレスチナ独立宣言
イスラエルに占領されたパレスチナ地区でインティファーダが加熱していた 1988年11月15日、PLOのアラファト議長はアルジェリア政府の協力を得て、首都アルジェで パレスチナの独立を宣言。
宣言は法的な文書ではなく、パレスチナ人の苦難や希望、抵抗の精神を表現するパレスチナの詩人の マフムード・ダルウィーシュ が起草したものをアラファト議長が読み上げ、パレスチナ国家の樹立を宣言した。
国連決議43/177の採択はパレスチナが国として国際的に認められた瞬間であり、決議後に約100ヶ国が国連を通じてパレスチナを主権国家として正式に承認するが、イスラエルと米国を始めとする西欧諸国(日本を含む)は承認せず、決議の採決でも反対票を投じたのはニ国間交渉を主張したイスラエルと米国だった。
パレスチナ国はインティファーダを支持して国際社会の関心を集め、パレスチナの苦境に対する国際世論の支持獲得に成功する。
オスロ合意(パレスチナ暫定自治協定)
1989年12月、マルタ島で米国のブッシュ大統領とソビエトのゴルバチョフ書記長が冷戦の終結を宣言し、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻して湾岸戦争が勃発。
米国主導で結成された多国籍軍にはソビエトも兵士を派遣しているほか、中東でもエジプト・サウジアラビア・アラブ首長国連邦・カタールが参加してクウェートの解放に協力するが、サダム・フセイン 大統領と親交のあったアラファト大統領はイラクを支持したため湾岸諸国との関係が悪化し、国際社会で孤立して資金援助が得られなくなる。
1991年4月11日にクウェートが解放されて湾岸戦争が終結すると、イラクの敗北によって中東の勢力バランスが変化し、中東紛争の解決を求める国際世論が高まる中、アラファト大統領はイスラエルとの対話路線への方針転換を図る。
国防相のときは強硬派だったイツハク・ラビンは過去の強硬姿勢が中東問題の解決には不十分であると認識し、イスラエル国内でも平和的解決へのに期待が醸成されたこともあって和平路線へ転換する。
1991年10月30日、スペインのマドリードで米ソの共催による中東和平会議(マドリード会議)が開かれ、パレスチナ・イスラエル・ヨルダン・レバノン・シリアが参加。
エジプトを除きアラブ諸国はイスラエルを承認していないため、これまでアラブ諸国とイスラエルの直接交渉は行われなかったが、この会議により直接交渉が始まる。
1992年にはノルウェーの社会調査財団の所長 テリェ・ルード=ラーセン と妻の モナ・ユール が中心となって、1993年にパレスチナとイスラエルの秘密交渉が実現。
社会調査を実施しているノルウェーの研究財団 FAFO研究財団の所長 テリェ・ルード=ラーセン は、1989年 カイロ駐在になった外務省に勤務していた妻の モナ・ユール とカイロに移住し、現地で FAFOの社会調査を実施。
調査の段階でガザ地区やヨルダン川西岸地区のパレスチナ人や PLOのメンバー、イスラエル人と接点を持ち、和平に向けてモナ・ユールとともにパレスチナとイスラエルの橋渡し役を買って出る。
秘密交渉の末、1993年8月に「イスラエルとパレスチナは相互に国家として承認」「イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める」ことに合意。
1993年9月13日に米国ワシントンDCでパレスチナのアラファト大統領とイスラエルの イツハク・ラビン 首相により 暫定自治協定に関する原則宣言(オスロ合意)に調印式が行われ、アラファト大統領は 1994年7月1日にパレスチナの地に戻り、ヨルダン川西岸地区に パレスチナ自治政府(PA)を設立する。
オスロ合意を機にインティファーダは終息に向かうが、オスロ合意はパレスチナ・イスラエル双方とも国内で反発を招き、ラビン首相は和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルにより暗殺され、イスラエルはシオニストによる右傾化が顕著になり、パレスチナでもパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のほか、イスラム原理主義の武装組織ハマスやイスラーム聖戦(PIJ)などが合意に反対する。
不平等な経済協定
オスロ合意によって和平プロセスは前進するが、イスラエルとパレスチナは経済力や軍事力で大きな差があり、パレスチナ経済はイスラエルとの貿易に大きく依存している現状もあり、経済協定(パリ議定書)はパレスチナにとって不利な内容になっており、イスラエルが一方的に併合した東エルサレムの問題も棚上げされたままだった。
- パレスチナはイスラエルの通貨(シェケル)を共有通過として使用
- 関税同盟が設立され、パレスチナはイスラエルと同じ関税率を第三国に対して適用
- イスラエルは一定の条件下でパレスチナ人に対してイスラエルの労働市場を開放
- イスラエルはパレスチナ自治政府(PA)の代わりに輸入品に対する関税や付加価値税(VAT)などを徴収し、定期的に PAに移転
パレスチナの輸出の約80%、輸入の60%はイスラエルとの貿易で占められており、失業率が 30%(1994年度)を超えるパレスチナ地区では、オスロ合意によって通商の円滑化や新たな労働の場の提供が期待されたが、実際には関税同盟の設立やイスラエル通貨の使用によってイスラエル経済への依存度が高まるほか、関税や付加価値税などの歳入(PAの予算の約半分に相当)をイスラエルが徴収するため、必然的に PAの財政はイスラエルに依存することになり、労働市場の解放についてもイスラエルで働くためにはイスラエル政府の許可が必要で、イスラエルの建築現場や農業などで低賃金の仕事に従事することになる。
アラファト大統領が不平等な経済協定に譲歩した理由は、パレスチナ自治政府の設立と困窮するパレスチナ地区の改善を優先させ、和平プロセスを促進させることで国際的な支援を取り付け、経済問題の再交渉する考えだったと推測されるが、自治政府が設立されたと言っても、オスロ合意は実質的にパレスチナ地区の植民地化だった。
和平プロセスの破綻
アラファト議長がパレスチナ独立宣言を行って和平路線に転換すると、イスラム主義組織ハマスやイスラーム聖戦はイスラエルに対する徹底した武力抗争を主張し、イスラエルで自爆テロを繰り返す。
イスラエルの民間人が犠牲になる中、アラファト大統領はパレスチナ国としてテロを非難するが、イスラエル国内での和平ムードは沈静化、1995年11月にラビン首相が暗殺されると一気に右傾化する。
1993年~1996年のハマス・イスラーム聖戦のテロ事件
- メホラジャンクション爆破(1993年4月16日)
- ベイト・エル自動車爆弾(1993年10月4日)
- アフラバス自爆テロ(1994年4月6日)
- ハデラバス停自爆テロ(1994年4月13日)
- ディジンゴフ通りバス爆破(1994年10月19日)
- ネツァリム・ジャンクション自転車爆破(1994年11月11日)
- ベイト・リッドの虐殺(1995年1月22日)
- クファール・ダロムバス襲撃(1995年4月9日)
- ラマトガンバス爆破(1995年7月24日)
- ラマト・エシュコルバス爆破(1995年8月21日)
- ヤッファ通りバス爆破(1996年2月25日)
- ヤッファ通りバス爆破(1996年3月2日)
パレスチナ国の基盤になっている PLOは世俗主義のファタハが中心で、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)など一部の過激派も加盟しているため、アラファト大統領は和平プロセスを推進しながらテロ支援を行っているという批判があり、一連のテロの中にはアラファト大統領が事前に把握、容認していたとの見解もある。
1996年6月の首相選挙でイスラエル国防軍の特殊部隊 サイェレット・マトカル に所属していたこともある野党のリクード党党首 ベンヤミン・ネタニヤフ が和平プロセスを進める与党の シモン・ペレス に僅差で勝利して首相に就任。
シオニストのネタニヤフ首相は「パレスチナ国がテロの扇動や支援を継続する場合、イスラエルは和平プロセスに参加しない」と宣言し、「イスラエルの治安維持」を口実にガザ地区とヨルダン川西岸から撤退を遅らせるだけでなく、パレスチナ地区にイスラエルの入植地を新たに建設する。
米国の ビル・クリントン 大統領はイスラエルとパレスチナの和平プロセスの促進させるため、パレスチナ地区の一部から撤退に関する「ヘブロン合意」の締結を仲介し、協定の完全な履行を促した。
米国の圧力に屈したと見做されたネタニヤフ首相は政権の基盤である右派の支持を失い、また政府閣僚の汚職事件などもあって 1999年の首相選挙では和平プロセスの推進を訴えた エフード・バラク に大差で敗北することになる。
2000年7月に米国のクリントン大統領はイスラエルとパレスチナ問題を解決するため、イスラエルの エフード・バラク 首相とパレスチナのアラファト大統領をキャンプ・デービッドに招いて首脳会談を開催するが、パレスチナは国連決議242に従ってガザ地区とヨルダン川西岸地区からの完全撤退を求めたのに対し、イスラエル側はヨルダン川西岸地区の 2割ほどをイスラエルの領土とすることを希望。
イスラエルはパレスチナ難民の帰還も認めず、エルサレムの領有についても対立、交渉は難航して合意には至らなかった。